というわけで、禅的ライフのすすめ、、
日常、、ふと、「気がついた」 ときは、、
背筋をスッと伸ばし、目の前の行為行動、出来事に一つ一つ、一歩一歩取り組むことへと移行してみます、、
この取り組みによって何か偉大なことを成し遂げようとか、特別な境地や真実を体得してやろうなどと思う必要は一切ありません、、
実際、この、一つ一つ、、一歩一歩の帰依が、、確実に 「今ここ」 という真実の扉を前に、、
その錠前を回し始めていると言うことができます、、
これが、禅のカギです、、
これによって、「今ここ」 とのダイレクトな同調に伴い、、私たちの行為行動は研ぎ澄まされたものへと昇華されていくと言えるでしょう、、
まるで、一本のアンテナが天を貫いて伸びているような感覚で、、
そのアンテナは何かを求めようとしなくても次々に必要なことを受信し、
意識がそれを感ずるや、すぐさま自然と行動は起こり、「今ここ」 とのダンスさながらに、
私たちは、軽やかに 「流れ」 の中を舞い始めます、、
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さて、ついでなので、私たちに内在する防衛的エネルギー、自我性は、、
日々、「恐れ」 や 「都合」 の感覚で私たちを 「収縮」 させるために、
私たちは、、要所要所で足をもつれさせるという場面に遭遇することも往々にしてあり得ます、、
実際これが、私たちの、行為行動における、ある種の不自然さ、違和感、ぎこちなさの要因ともなっているものですが、、
禅の力を借りつつも、、こうした、「恐れ」 や 「都合」 の根強い引き戻しを手放し、執着や収縮を解放するとき、、
私たちは、、本来的な、「今ここで起きている唯一のリアリティ」 に舞い戻りつつ、、
その同調に伴って、私たちの体感は、、実に自然な在り様、、「流れ」 そのものへと姿を変えると言っても良いでしょう、、
こうしたことについて、、
白隠禅師は、、三昧無碍 (ざんまいむげ) の空広く、、的に表現してみたり、、
懐かしのOSHOおじさんによれば、、カルマはあなたに触れられない、、的な感じだったかと思い出しながら、、(?)
ハリー的には、、禅のアンテナ、、禅テナ (笑) からの、ファンタスティック今ここ!(笑笑) ってなところで、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!