ふと思い出されたので、鈴木俊隆禅師のある逸話より、、
ある修行者の一人が、、博士論文を仕上げるのに専念しつつも、、
来る日も来る日も机に向かう中で、周囲からのプレッシャーに耐え兼ねうんざりしながら、
禅センターを訪れ、禅堂に坐っていたそうです、、
そこに老師が現れ、彼の背中を叩くと、彼のアパートを指さしこうつぶやいたそうです、、
「あそこに居て、論文を書きなさい」
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さて、この修行者の、「今取り組まなければならないこと」 から目を背けて、ある種、修行に逃げ込み、禅師に依存し、禅にすがる様相を見極めた上での、
この言葉の発露だったのかもしれないなと何となく推察されますが、、
真の指導者は、道を歩もうとする者たちに、偽の確信や希望、慰めを与えたりすることはありません、、
彼らは、「向き合わなければならないこと」 から目の前の相手が逃げ出していたり、あるいは、逃げ出そうとしたりすれば、、すぐさま、拠り所としているものを打ち砕き、、必ずや、「今ここ」 を彼らの目の前にあらしめます、、自分が嫌われようが関係ありません、、何度も何度も彼らはそうするでしょう、、
そして、修行者はある時、気づきます、、
「苦しみ」 というのは、「避け続けていた対象」 自体にあったのではなく、、それを 「避けていた」 感覚自体、そこから 「逃れよう」 としていた抵抗自体の中にあったのだということに、、
そして、逃げずに出会う (受容) ということによって、不思議なエネルギーがその場に満ち、壁のように見えていたところに突如として扉が現れたり、とても登り切れないと思えてた高みを前に思わぬ抜け道が現れたりといった可能性が不意に見出されることもあるのです、、
こうしたことのキーと言うべき体感は、繰り返しになりますが、シンプルに、「逃げずに出会う」 ことに尽きるのです、、
この様相が、抵抗や軋轢と言った二元感覚を調整し、非二元的にそれと同調した様相、即ち、受容性を開くからとも言えるでしょう、、
というわけで、日常のどこかのタイミングで、目の前の出来事から離れて、「もっと良い何か」 「もっとましに見える何か」 を求めようとしたり、そうしたことの中に (恐れのままに) 逃げ込もうとした感覚を感じた場合には、、
それを手放し、「取り組む」 ということ、「出会う」 ということへ、、気づきと共に一歩を踏み出せるかどうか試してみてください、、
その後に何か興味深いことが起きた際は、ぜひともご報告ください、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!