というわけで、久々登場、ティーチャー、ジョーンさんより、、
解放とは、私たちの苦しみと混乱の根底にある想像上の問題 (思い違い) を見抜くことです。
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探究とは、自分の持っているあらゆる考えと思い込みを問い直す一つの方法でもあります。
思考が出てきて、
「私は自分の人生を台無しにしてしまった」 とか、「彼はあんなことをすべきじゃなかった」 とか、「あんな奴が選挙に勝ったらこの国は破壊されてしまう」 などと言うときは、
それがどんなにもっともらしく理に適っているように思えたとしても、こう尋ねてみると良いでしょう。
「 これが事実だということを私は間違いなく知っているだろうか?この思考を信じているとき、
どんな感じがするだろう?この思考を信じていないとしたら、どんな感じがするだろうか?」
考えて答えを出そうとせずに、体と心をすべて使ってこうした問いをしっかりと感じてみてください。
何が明らかになるかを見てください。自分が今ここにいるということ以外、どんなことについても完全な確信などありえないと気づくかもしれませんし、
何かを信じていなければまったく幸せで何の問題もないということを発見するかもしれません。
(ジョーン・トリフソン)
って、ここまで鮮やかに言われちゃうと、、もう何も書くことはないと毎度思い知らされてしまいますが、、
ま、せっかくなので少しだけ、、私たちは、「恐れ」 故の、所有性という反応に伴って、
「信念」 を所有すること、、即ち、「信じる」 ということへと瞬間的に結びつきます、、
目の前のコップ一つにしろ、社会的な常識、正しいとされていること、一方で、間違いとされていること、
さらには、自分という人物、境遇、状況、立場、家族構成、交友関係、、
ありとあらゆる、ストーリー (思い込み) を無意識に 「そういうものだ」 と信じて (いることに気づかずに) 生きています、、
けれども、思考が主張する意見や言い分、あるいは、主張以前に凝り固まった常態化した観念というのが、実は、自分が握りしめている、「信念」 によって支えられていなければ、何一つとして、それが事実であるということを私たちは 「知らない」 という 「真実」 を見落としてしまいがちです、、
もちろん、こうした思考や観念が、相対的な常識や社会を構成しているという二元的な側面も当然ながら存在しているということを否定する必要はありませんし、それがすべて幻想だからといって一つ残らず投げ出す必要があるというわけでもありません、、
大切なのは、、そうしたものが本来的には、仮の姿であり、何にも枠付けされないリアリティが確かにそれらを超えてあるという認識に事あるごとに戻ることができるかどうかという点です、、
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そのリアリティに戻る、あるいは、それを思い出す術は、、ジョーンさんも言っている通り、、
「信念」 の放棄であり、信じていることに、「疑い」 という光を当てることによって見出されるのです、、
自分が独りよがりの思考や、もっともらしく周囲 (社会や世の中など) が語る主張を信じるあまり、収縮し、みるみる内にそのストーリーを生きる 「個人」 を実体化している様子に気づいた場合には、、
ジョーンさんの言うような 「聖なる疑い」 をその混沌としたエネルギーの中心に投げかけてみると良いでしょう、、
そこにおいて、思考の空回りや混乱は静まり、本当のところでこれ以外の真実はあり得ないという、
「今ここに在る」 というリアリティに目覚め、もう一度、その場から落ち着いて物事を始めていくという冷静さが自然と沸き起こることもあるでしょう、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!