自我 (恐れ) の肥大化した様相として、鬱性の傾向が現れる場合もそれなりにあると言えるでしょう、、
体感が重々しく感じられ何も手につかず、仕事や学校にも行きたくない、、
防衛の反応そのままに、外界を避けながら、「安心安全」 の陰に隠れて、その場にずっととどまっていたい、、などなど、、
こうした傾向自体が良いか悪いかと言うことではなく、、
こうした反応が現れた場合、それが 「自我」 であるということを求道の私たちは見破らなければなりません、、
もちろん、自我の反応が起きること自体に問題性があるというわけではありませんが、、
自我を 「見る」 やすぐさまそれをいなし、「自我で在ること」、あるいは、「自我に取り込まれること」 から、
「自我を手放す」 方、「自我のエネルギーを利用し自我を昇華させる」 方へと転じる可能性を私たちは見出すことができるのです、、
この転換を為し得る、ある意味での 「経路」 と言うとき、、私は日々、「禅」 的体感を奨励したりするものです、、
即ち、自我が、「安心安全」 を求めたまさにそのエネルギーをサインとして、「安心」 の中に安住せず、「安全」 を手放して、「今ここの出会い」 の中へと一歩を踏み出すエネルギーに 「変換」 してしまうといったようなところです、、
この一歩は、例えどんなに些細に見える行為や行動であっても、私たちの自我 (のエネルギー) を流してくれます、、
あるいは、エネルギー的には、これを 「癒し」 と言うこともできるでしょう、、
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というわけで、私たちの日常において、安心安全を求めるあまり、為すべき行為や行動にあれこれの思考が言い訳を持ち出して、「出会い」 を避けようとする反応が現れた場合には、、
まずは、無理にそうした反応を手放そうと躍起にならずに、ただその瞬間、「自我が起きている」 ということに気づいて、自我を見守ってみて下さい、、あるいは時に、こんな風に語り掛けても良いかもしれません、、
真の安心 (大安心) は、「安心」 など求めやしない、、
「安心」 を求めようと 「安心」 に留まろうとするそのエネルギーこそが、実際は、見せかけの 「安心」 であって、実は、それは、「安心」 の対極、「安心」 という形に姿を変えただけの、、「恐れ」 であり、「不安」 であり、「自我」 に他ならないということが徐々に明るみにされると、、
自我は 「気づき」 に徐々に従い始めます、、そこですぐさま、「禅」 を発動させるのです、、
自我のエネルギーをあなたが 「今を生きる力」 に転換させるのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!