多少の 「ストレス」 というのは、作物の育成には好転的に作用するということもあります、、
水を制限して栽培した果物が、甘い果実を実らせるように、、
というわけで、私たちの日常に際して気を付けなければならないことは、、
まったくストレスのないあらゆることが自由に展開し、思い通りになる 「天国」 のような世界が永遠に続くようなことを決して望んだりはしないということです、、
自我にとっての、「天国」 を望む様相は、、結局のところ、背後にある 「恐れ」 に無自覚のまま流されているということに他ならず、「自我が起きている」 ことに私たちが、ある意味で、「眠って」 しまっている様相とも言えるものだからです、、
自分が望んだ 「天国」 を脅かすような事態が仮に目の前に展開するような場合には、
すぐさま、想像上の 「天国」 とのギャップの中で 「苦しみ」 が展開することになるということを思うとき、、
こうした 「苦しみ」 を生み出すトリガーが実は、「天国」 に起因しているということ、「地獄」 はまさに 「天国」 の度合いによってもたらされるということも知っておかなければなりません、、
地獄を避け、天国ばかりを経験していたいという願望こそが実は地獄の一側面です
(ジョーン・トリフソン)
「天国」 への執着が希薄になればなるほど、「地獄」 の様相もまた解放されていくのです、、
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というわけで、体感的な (自我性に起因する) ストレスを感じた際、、
それを自分の 「天国」 を脅かすが故の、「地獄」 を生み出す根本などとは思わずに、、
ストレスという体感で以て振動する自我の様子を見守りながら、、
その場から反射的に逃れたり、躍起になって状況を改善しようとする代わりに、気づきの軸を 「今ここ」 の地中深くに降ろし、その場に目覚められるかどうか試してみると良いでしょう、、
これは 「禅」 が日々行う、どんな時も、何が目の前で展開しているときであっても、「今ここ」 だけを相手にしに、その場に取り組むということと同じです、、
ストレスを避け、ストレスから逃れる様相を手放し、ストレスの中に在り、ストレスを敵とするのではなく、
「出会い」 の力によって、ストレスでさえも友とすることができるという可能性を私たちは見出し始めるのでしょう、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!