同じことの繰り返し? | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

例えば、禅の修行においては、決まった時間に起き、毎日の日課と言われる修行を延々と続ける日々が一定期間続きます、、お願い

 

 

こうした修行の中で大切なのは、そうした日課をきちんとこなせるようになるといった段階を経た後、

 

むしろ、日課への 「慣れ」 が生じ始めてきた頃こそ、真の修行が始まるとも言えるかもしれません、、

 

 

 

即ち、、「慣れ」 の中にあっても、「初めて」 を経験できるかどうか、

 

同じ日課に見える修行のすべてに、一期一会として出会えるかどうかといった点であると言えるでしょう、、虹

 

 

 

私たちの自我性は、その防衛性のために、「習慣」 の中へと安住することを常としています、、

 

自我性にとって、「習慣」 とは、その 「恐れ」 故に、身を隠す場であるというわけです、、バイキンくん

 

 

こと、悟り系では、これら 「習慣」 による内的な産物を、「観念」 という言葉で一くくりにしていたりもしますが、

 

つまるところ、自我性の生きる場は、「今ここ」 という真新しい場というよりも、「習慣」 によって上塗りされた、「観念世界」 であると言っても良いでしょう、、グラサン

 

 

 

こうした私たちが有する一種の習性、いわゆる、「自我の癖」 を見抜いてきた禅の師たちはそれを崩すためのアプローチを修行の中に様々に仕掛けたとも言えるわけです、、ダルマ

 

 

本来、毎瞬毎瞬が移り変わり、生まれ変わり続ける、全き新たな世界を真に生きるために、

 

「今ここを生きる」、「今ここに取り組む」、「今ここに三昧する」 といった基本にしてむしろ真髄と言うべきところからの発露を何よりの前提としているわけです、、

 

 

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というわけで、私たちの日常に際して、意識が、無意識に 「慣れ」 故の、「習慣」 を生きている ( 「習慣」 の中に安住している) ことに気づいた際には、、もう一度その出来事なり、行為なり、出会いを 「初めて」 行えるかどうか、、グッ

 

 

ある意味では、「人生における本番」 の如き最上の価値で以て、それらをもてなせるかどうか、

 

「無意識」 を手放し意識的な眼と共に 「一期一会」 を生きられるかどうかを試してみると良いでしょう、、富士山

 

 

 

 

というわけで、禅の世界には、「同じことの繰り返し」 は存在しません、、完了

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!パー