しばしば、アドヴァイタ系の求道で見かけられる言葉として、
「キリスト意識」 といったものがあるかと思いますが、、
これは、当然ながら、あのキリストが存在していた意識状態のことを指していたりするわけですが、、
って、正確には、意識は 「状態」 ではないので、本来的な意識そのものの在り様ってなところでしょうが、、
要は、、キリスト意識というのは、、「今ここに在る」 です、、
別段これが特別なものであるというわけではありません、、
この 「今ここに在る」 は私たちの質そのものであって、本来の姿であるわけですから、キリストだけが、あるいは、彼の在り様が特別というわけではないのです、、
けれども、彼の存在があまりに崇高で超越的なものとして祭られてしまった背景には、
その当時の世界があまりに未熟で、「自我 (無意識) のまま」 に流される様相が常態的であったために、
キリストの、ある意味で突飛とも言える言動は、非難され、大罪とも言える形で排除されてしまったのでしょう、、
キリストからすれば、いかに、世界を囚われ (自我意識の魔法) から目覚めさせるかに奔走した結果のことだったのでしょうが、、言葉によるガイドだけではやはり限界があったのです、、
実際彼が語ったとされるこの言葉として、、
彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているのか分からないのです、、
といったものがありますが、この言葉を遡るとき、仏教的には、意識の 「無明」 状態に陥っている人々を見る、「今ここに在る」 に目覚めていたキリストの目線との同調が起きることもあるかもしれません、、
ま、そんなこんな話は変わりつつ、、ついでに、、
「言葉」 でのガイドは、妄信や迷信のもとになり、真実を指し示すための道具に過ぎないはずの言葉が、時に、自我 (恐れ) の拠り所になることさえあるということを知った上で、、
例えば、老子の道徳教の一番初めには、語られる道 (タオ) は道 (タオ) ではないとした前提と言うべき戒めが遺されていたり、、
あるいは、そうした老子のエッセンスも吸収したとされる禅に至っては、「不立文字 (ふりゅうもんじ)」 といった、いわば、「語らずの誓い」 をその主軸に置いていたりといったアプローチもその後の時代の流れの中で生まれることになったりもします、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!