かの老子がm生涯ただ一つの著書、、「道徳経」 の冒頭にこう記した、、
語られる道 (タオ) は道 (タオ) ではない、、と、、
彼は死に場所を求め、国を離れようとするとき、、一人の弟子が老子を監禁し、、
書を遺さねばここから出さぬと半ば強制されたために、彼は仕方なしにこの書を遺すに至ったとのこと、、
書など決して遺そうなどとはしなかった彼が、、生涯で初めて書を遺す際、、
冒頭の言葉に選んだのは、、まさかの先の言葉、、
真実は、語り得るものではないのだ、、
これは即ち何を示していたか、、これから語る言葉は決して真実ではあり得ない、、というまさかの宣言であって、、つまり、「言葉」 自体を追いかけるのではなく、、「言葉」 の先にあるものを見よ!ということだったのです、、
その後時代を超え、この、老子の生涯ただ一つの著書が、、釈迦の悟りを携えてインドから中国に渡った一人の僧、ボーディーダルマ (達磨大師) という人物の手によって昇華され、「禅」 という体系が生まれる上での欠かせないカギになったというわけです、、
実際、達磨の四聖句として知られる、、禅の大前提を記した言葉の一番最初に、達磨はこう遺しています、、
不立文字 (ふりゅうもんじ)
即ち、、言葉を頼りにしてはならぬ、、ハリー的に言うところの、、語らずの誓い、、です、、
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といったところで話は戻し、、求道の道すがら、、真実とは何かと問い、それについて 「考える」 ということ、真実について語られた 「言葉」 を頼りにするという段というのは当然のことながら存在します、、
ですから、、そうした傾向を否定する必要はありませんが、、前提として認識しておかなければならないのは、「自分が真実について考えている」 ということに不意に気づいたときには、、
老子や達磨が遺したこれらの言葉を思い出しつつ、、「言葉で真実をとらえようとする傾向」、「真実について延々と考え続けている様相」、、これらを気づきと共に手放し、、
「言葉」 や 「考え」 を介さない感受性、、即ち、、
今この瞬間に在る、そのままでただ在る、今ここが現れているという絶対的なリアリティに寄り添えるかどうか試してみると良いでしょう、、
「言葉」 や 「考え」 を追いかけている限り、「真実」 はどこかにあるもの、あるいは、言葉で言い表された 「何か」 として固定化されてしまい、観念の中で単なる想像物になってしまいます、、
つまるところ、、「真実」 を 「考える自分」、「真実」 を 「想像する自分」 という二元的なトラップに気づかないまま、、「真実」 と 「別物の自分」 というまやかしの構造ができあがってしまうというわけです、、
本当の求道というのは、、いかに、真実 (今ここ) で在れるか、、なのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!