先の月曜日、、自我意識の多くが、「次の日」 にすぐさま休日が控えているがため、、
早く 「次の日」 が訪れてはくれないかと、「今とは違った何か」 を望んだことでしょう、、
かく言う私もちょいちょいと、、笑
ま、とは言え、この反応が、自我による毎度反射的な防衛作用故の 「今ここ外し」 であるということをはっきりと観ることができれば、手放すのもまた容易です、、
※ 「手放す」 ということにおいては、それが起きている様子を気づきのもとに晒さない限り、意識的な 「手放し」 が生じることはまずないものです、、
混沌としたした防衛性、「恐れ」 は絶えず無秩序に漂い、私たちの 「身を守る」 ためにといつでも機会さえあれば、反発、抵抗、執着といった反応を露わにするチャンスをうかがっている反面、、
ひとたび気づきの光にさらされるや、、まるで、映画、となりのトトロのまっくろくろすけのように、、
そこに本当にあったのか疑ってしまうほどに姿をくらますことがある意味では常であると言えるでしょう、、
こういう観点から、「自我は幻想である」 などとしばしば言われるわけですが、、
それでも、私たちが日々を送る中で、状況に応じて、自我の働きによって足を取られていると感じる場面は確かにあって、その度ごとに、自我からの目覚めは求道においては必要なことです、、
自我の引き戻し、執着が、、「今 (流れ) とは違った何か」 へとしきりに抵抗していたり、反発しているように感じられた際には、、そのことに気づいて、、手放せるかどうか試してみて下さい、、
もちろん、何としても手放さなければなどと頑張ってしまうとこの求道的な取り組みが逆に自我のエネルギーを誘発してしまうことにもなるので、、コツとしては、、手放そうとはせずに見守り、手放しが自然に起こるフィールドを用意してあげるといったところです、、
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ま、実際のところ、、ここで 「禅」 の中継があるのとないのとでは、それなりに大きな差があるとも言えるものです、、
というのも、、「禅」 においては抵抗が現れようが、執着が現れようが、、その瞬間に目の前にあるものであるなら、、問答無用で、「出会う」、「取り組む」 ということが徹底された前提とされているからです、、
ですから、「手放す」 か、「手放せぬ」 かを問題とする以前に、感・即・禅!と間髪を入れずに 「今ここ」 の中に溶け去ってしまいます、、
実際これが、、シンプル過ぎるほど見事に、、二元的な在り様、、
今回であれば、、「今日この日」 から逃れて、「休日の明日」 へと逃げ込もうとする自我的意識状態、、(「今日」 しかないリアリティを、「今日」 と 「休日」 の二つに分け、「今ここに在る」 だけの本来開かれた意識を、「今日」 から離れ、「休日」 へと向かわなければならないと収縮した 「個人」 の感覚) を鮮やかにいなしてみせるのが禅、あるいは、禅定力 (ぜんじょうりき) などと言われるものなのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!