先日、、何か思ったより硬い物をうっかり口に含んでしまい、、
次の瞬間、まさかまさかの、、ガリ!!ガリガリ!!!
なんと人生初、、健康だったはずの歯が見事に欠けてしまった折の話、、
ここで図らずも思い出されたのは、、以前取り上げた、ソクラテスが命を賭して行ったとある実験の話、、(↓)
当然、あれほどの気概がわたしにあるわけでもありませんが、、笑
次の瞬間面白いことに、、それを見ている者、、その一連の様子に気づいていた何かは、、当然ながら、一ミリも 「欠けて」 はいなかったということ、、傷ついてもいなかったということ、、
増えることも減ることもない、清らかになることも汚れてしまうこともないと、かの般若心経の言う通りの在り様そのままというわけでした、、
私たちの一般的な認識は、、「私」 という固定化された存在が、この肉体の中に居て、肉体=私自体とした同化作用が常時起きているわけですが、、肉体=私自体ではないことは、今回のように歯が欠けずとも認識するのはとても容易です、、笑
つまり、爪を切ったり、髪を切ったりしても自分が 「減る」 ということはないし、ケガをしているときとケガが治癒したときを比べてみても、そのことに 「気づいている者」 に何らかの影響が及んでいることは本当はないということ、、
病のときも苦しみの最中でも 「それを見ている者」 が 「見ている」 以外の何かであったことは実は一度もなかったということを見れば、、このシンプルなまでの本来の認識は容易に取り戻せます、、
私たちとは、、相対を見守る絶対性、、常に今ここに在る受容性であるということ、、
そう言えばと、その昔こんな言葉があったのを思い出しました、、
私が神を見る目と、神が私を見る目は、同じである、、
※ちなみに、、よくこうしたジャンルの話でなされる、何があっても大丈夫、、としたメッセージは実はこのことをベースに語られているものだったりもします、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!