目覚めとは要するに | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

当然ながら私たちは、、絶えず 「変化」 が付きまとう 「無常」 の世界を生きていると言えるわけですが、、

 

一方で、、どんな 「変化」 に見舞われても尚、何一つ 「変化」 することのない 「常 (今ここ) 」 の世界というものも同時に存在しています、、

 

 

無自覚に 「変化」 に流される在り様を、「無意識 (的) 」、求道では、無明、迷妄などと言い、いわゆる 「眠り」 や 「夢を見ている」 状態などとされます、、

 

 

一方、「変化」 が起きている最中、その 「変化」 にしかと気づいていることを 「意識的である」 と言うわけですが、、この時、、私たちは、「変化」 の中にあっても全くの不動であって、「変化」 から自由であるとさえ言えたりもするわけです、、富士山

 

 

 

実際、禅の修行においては、「意識的に取り組む」 ということが修行のすべてに求められると言っても良いでしょう、、洗面、食事、読経、歩行 (経行)、坐禅、呼吸、掃除、、行為の一つ一つ、所作の一つ一つに注意深い 「気づき」 を向けます、、

 

 

気づいているときというのは、そのことに 「意識的である」 ときであるわけですから、、見かけの上ではどんなに活動的であっても、実際には、「動いてはいない」 のです、、ダルマ

 

 

然るに、禅の修行とは、この領域、、動かずの真性さ、「今ここに在る」 を思い出すためのものであると言えるでしょう、、場合によっては、このことに対して 「辿り着く」 という表現もできたりもしますが、実際にはそれは正しくありません、、「辿り着く」 ということにおいては、どうしても 「変化し成し遂げる」 という観念が見え隠れしているからです、、

 

 

「今ここに在る」 とは、修行の末に到達できる境地ではなく、初めから常にあるものへの帰還 (転換なき転換) です、、カエル

 

 

目覚めとは要するに、ただここにいるということだ (ジョン・バーニー)

 

 

 

 

 

さて、、この領域が目覚めると、新たな可能性に徐々に気づき始めることもあります、、ひらめき電球

 

それは、「変化」 に対して、「動かずの領域」、、これ即ち、「変化」 をただ見守るということから来る、いわゆる、「変化」 をあるがままのものとして 「受容」 するという不思議とも言える発露です、、合格

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星