自我をなくそう、滅しようなどとは言っても、そもそも自我とは、「実体」 として固定化されているわけではないため、実体なきものを滅しようとするのが空回りするというのも事実です、、
けれども、常態化した自我的エネルギーのしこりが苦行や禅行などのアプローチの中で時に脱落するという可能性も確かにあるため、そうした鍛錬がまったく間違っているというわけでもありませんが、、
私たちにとってどちらかと言えば大切なのは、、自我が起きないようになる状態を望むことではなく、
実体なき自我が絶えず起きているその時に、自我自体として 「無自覚」 に (恐れながら) 生きるのではなく、、その度ごとに、自我を 「見ている」 在り様と共にあることであると言っても良いでしょう、、
実際のところ、、自我が起きないようにと半ば不可能な努力を続けるよりも、どんなに自我が起きてもそれを見守る領域であるところの、「気づいている私」 は、自我には何ら影響されてはおらず、
恐れていても恐れていない、恐れに意識的であるために、「恐れ」 からはある意味で、自由であり、恐れを受容しているいる在り様が見出されます、、
その 「気づき」 によって照らされた中で、反射的な自我 (恐れ) は割とすぐに消えてしまったり、あるいは、例え強固に見える形でそのまま居座り続けたとしても、「受容」 という後ろ盾によって見守られた自我はほどなくして規律を取り戻しつつ、、「恐れ」 に盲目的にとらわれるということは徐々に減り始めるものです、、
加えて、「意識的な」 在り様というのは、正しい行為や閃きが自然と発露するフィールド自体とも言えるため、、その体感と共にあることで 「迷い」 の傾向もまた薄らいでいくものです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!