自分の目の前にあるのがそれだ。
まったく完全で、徹底的に完璧だ。それ以外には何もない。
悟りの境地を目指して菩薩の道のすべての段階をひとつひとつ歩んだとしても、
ついに一瞬のうちに完全な認識を得るとき、そこでわかるのは、
仏性はずっと自分とともにあったということ、それだけだ。
そこに至るまでのどの段階においても、仏性に何かを足すなどということは絶対にない。
こちらは、かの臨在禅師の師、黄檗 (おうばく) 禅師の言葉のようですが、、
まさに、 ”禅は、今ここを外さない”、、かくの如しとでも言える言葉です、、
即ち、、禅が相手にするのは、どんな時もどこに居ても、真実 (今ここ) 以外に他はないのです、、
というよりもそれ以前に、、今ここ以外が実際に現れたこともなければ、今ここ以外に私たちが存在したことも一度としてない以上、、これ以外の真実がどこにあると言うのでしょう、、
真実はいつも目の前に、私たちと共に、、さらに言えば、、私たちそのものとして在るのです、、
そう、ですから、、私たちとは、、今ここなのです、、
というわけでおまけに、、久々に思い出された、アジャシャンティさんの言葉より、、
まさに初めから、仏陀が言ったように、ただ涅槃だけがあるのです。
でも、私たちは物事を間違って認識していたのです。
自分のマインドのイメージを信じることで、恐れ、躊躇、そして疑いを通じて収縮することで、私たちは自分が居るところを間違って認識していました。
私たちは自分が天国に居たことを理解していませんでした。
私たちは自分が約束の地に居たことを理解していませんでした。
私たちは涅槃がまさに今ここに、まさに自分が居るところにあることを理解していませんでした。
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!