カテゴリ:時間考察
時間の陥穽200
ナーガールジュナの著作とされる「中論」に関しては、多くの思想家が何事にも「縁起ありき」で、その縁起を「在りき、将又、有りき」ものなのかを明快にせず「空」として何れにも属させてないことを指摘します。ナーガールジュナの思想は「始め」に縁起ありきであるとする仏教解釈の学者さえいます。ところが、ナーガールジュナの文献を睥睨しても、先ず「縁起」があって其の後に汎ゆるものが続くことを述べるのをいうまでもなく否定しているように憶えます。否、寧ろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものだとして屡々否定します。何故なら、「初めがある」という言(げん)は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。此れは仏教全般に共通していえます。縁起や輪廻を説く仏教は無因の「無始無終の有」を否定するからです。それゆえに、シッダルタは社会情勢から教えの弘通ゆえに、言質では神を認めても「神」の生死を匂わせています。世界の存在に関する「始め」とか「最初」という言葉は甚だ非仏教的な概念だからでしょう。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年07月04日 06時27分58秒
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