日光東照宮の神厩舎(しんきゅうしゃ)は、ご神馬をつなぐ厩(うまや)です。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されています。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。一般には人間の一生が風刺されていると云われますが、実は徳川15代将軍の預言書だった説があります。

 

 

 

1枚目。遠くを見ているのが、天下を取った器である徳川家康。そして、小猿は家康の長男で、余りに優秀だった為、危険人物と見なされ織田信長に切腹させられた松平信康。
 
 
 
 
2枚目。左から2代秀忠・3代家光・4代家綱を表しています。有名な見ざる、言わざる、聞かざるの三猿です。外国の事は「見ません、言いません、聞きません」。つまり、有名な鎖国政策を表しています。
 
※「鎖国政策」。

江戸幕府が封建体制強化のため、キリスト教禁止を名目に、オランダ・中国・朝鮮以外の国との貿易と日本人の海外渡航とを禁止したこと。また、それによる国際的な孤立状態。1633年から1639年まで五次にわたって出された鎖国令に始まり、1853年のペリー来航まで二百余年間続いた。

 

 

3枚目。そっぽを向いた猿です。まさに5代綱吉。庶民の暮らしにそっぽを向いて、まともな政治を行いませんでした。極めつけは悪法と云われる「生類憐みの令」を発しました。
 
※「生類憐みの令」
江戸中期、5代将軍徳川綱吉が発布した殺生禁断の令。貞享2年(1685)以後しばしば発令。特に犬を大切にし、犯す者は厳罰に処した。綱吉の死後、廃止。
 
 
4枚目。左から6代家宣と7代家継。上を向いている猿と下を向いている猿。つまり、士農工商の身分制度を作り上げました。

 

※「士農工商」。

江戸時代の社会を構成した主要な身分である武士・百姓・職人・商人を指すことば。四民(しみん)ともいう。国制を中国古代封建制度に則して理解しようとした儒者などによって用いられたのをきっかけとして、支配イデオロギーの重要なキーワードとなった。支配階級としての武士の地位を合理化しその経済的基盤であった農民は次位に置かれ,生産にかかわらない商人は最下位に位置づけられていた。

 

 

5枚目。いたわってる猿。左から8代吉宗と9代家重。享保の改革で庶民の暮らしに寄り添った政治を行っています。いちばん右、10代家治。崖に立つ猿。天災による慢性的凶作(天明の飢饉)に農村が疲弊し、体制の危機が進行して、まさに崖っぷちの状況でした。

 

 
 
※「享保の改革」

将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、その在任期間(1716年~1745年)を通じて行なった諸改革。幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制、上米(あげまい)の制、定免制による年貢徴収の強化、新田開発、甘藷(かんしょ)など新作物栽培の奨励、米価の安定、通貨の統一、目安箱の設置など。

 

 

6枚目。左から11代家斉。木に登り、離れた所で生活する。隠居後も大御所として幕府の実権を握っていました。12代家慶。老中水野忠邦に天保の改革を断行させたが、急激にやりすぎて失敗。のち、外国勢力の圧迫による難局で、にっちもさっちもいかなくなり、開き直って物思いにふけっています。

 

 

 

7枚目。左から13代家定。波が外圧を表しています。黒船の来航がありました。右は14代家茂。菊のような花が皇室との関係を表しています。公武合体政策の一環として皇室から皇女和宮を御台所にしています。
 
※「公武合体(こうぶがったい)」。
江戸末期、朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。大老・井伊直弼(いいなおすけ)の死後、老中安藤信正らが主張、和宮(かずのみや)降嫁が実現したが、のち、戊辰(ぼしん)戦争で討幕派に圧倒された。

※「御台所(みだいどころ)」。大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。

 

 

8枚目。15代将軍・徳川慶喜です。大政奉還で政権を放り出して幕府から去っています。このように三猿が徳川幕府の預言書だと云う説も、まんざらではないようです。
 
 
※「大政奉還」。

政権を天皇に返上すること。慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を朝廷に返上することを申し入れ、朝廷が翌15日、それを受け入れたこと。これによって鎌倉幕府以来約700年続いてきた武家政治は終了した。

 

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