タイトルを見たら、なに言ってんだこいつ的ですが・・・。まぁ、俺はすったもんだの結果、子供の頃から何だこいつ的なキャラだったので、全ては仕方ないことです。
しかし今回の話も、俺の想像だけでない気がしました。古代の段階で、天皇家が使った叡智だったりするかもしれませんよ。
○いつも助かっております
俺が地獄の苦しみを味わった土地。
といえば、言わずと知れてますが、埼玉、東京、栃木、静岡の四都県で相違ないです。その退っ引きならない地獄の話は、過去にブログでしたためてました。
そこに含まれる栃木、それに隣り合う群馬って、2県で1セットなのは近頃の人はご存知なのですかね。
両毛線とかありますが、あの両毛は左右の脇毛のことじゃありませんでした。
両毛を分解すると、上毛野、下毛野に別れます。
上毛野(かみつけの)は別名を上野(こうずけ)、といって、またの名が群馬。下毛野(しもつけの)は別名を下野(しもつけ)といって、またの名が栃木。
まとめると、
・毛野国=両毛
・上毛野=上野=群馬
・下毛野=下野=栃木
て感じ。
この両毛、かつて毛野国とよばれた広域的な豪族の支配地だったんすね。
このあたりの古墳については、電子書籍のほうでも触れてるので、読んでみてください。
歴史上にはじめて突厥が登場するのは5世紀の頃。
柔然に従う鉄工奴として属していた突厥人は、匈奴系とも言われるが、別の記録によれば丁零にいた阿史那氏からの出自だとか。この阿史那氏は雌狼から生まれたとかいうテュルク系特有の伝説を持っていたりします。
柔然の支配に抵抗した族長の土門は、突厥の部族を率いて独立、552年に武力で柔然を破ると、伊利可汗として初代突厥王になったとか。
582年に突厥は東西に分裂し、東側の満州のあたりに東突厥が横たわるのでした。
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東突厥と栃木
古代の倭国では、大陸情勢を日本列島に当てはめていたと見ています。これについての記事は以前に書いていました。
例えば、
上古東アジアと関東の諸国郡名
・扶桑(日本)は総国 (扶桑→fuso→fusa→総)
・漢は神奈川 (漢→kan→神→神奈川)
・扶余は武蔵国 (扶余→buyo→bujo→buzo→武蔵)
みたいな感じで。
で、この突厥と栃木の両者も、名前でつうじますね。
突厥(turuk)
totsu-ketsu
栃木
tochi-ki
でもって、突厥からの影響がありそうなとこでは
・葉護(ヤブグ)は芳賀郡 (葉護→hago→haga→芳賀)
・阿史那は安蘇郡 (阿史那→asina→aso→安蘇)
・阿史那は足利郡 (阿史那→asina→足→足利)
・サヤン山脈は塩谷郡 (サヤン→sayan→sioya→塩谷)
・turkは都賀郡 (turk→tsuka→都賀)
てな具合に、関連づいているかもしれないなと。
地図の比較
いま残る古地図の多くは奈良時代のものですが、じつは弥生時代末期にはすでに地図が使われた可能性が高いです。
というのは崇神天皇が配下に全国の測量をさせているためです。大まかな諸国の配置、海岸線、山岳、河川の位置は掌握してたと見られます。
そうすると弥生時代末から古墳時代の天皇家が、ユーラシア大陸の勢力地図を元にして、日本列島の諸国の名や形を決めていてもおかしかったかと。
(1)・東突厥の地図
東突厥の地図はネットに幾つもありますが、すごく曖昧で、Wikipediaや中国のサイトを見ても統一的な地図がないです。この地図は詳しいのではないかと。
ぱっと見ると歪なジャガイモ的な東突厥、モンゴルとか満州のあたりにあった国でした。 北側が山岳地帯で、南側が乾燥地帯。
(2)・下野国の地図
つぎに下野国の地図。下野国は、ほぼ現在の栃木県の領域と変わっていません。西側が那須連邦を含む山岳、南東側が関東平野。
べつに東突厥と重なる要素は無いように見えますね。
(3)・両者の比較
しかし両者を比較すると、なんとなく一致する要素が近づいてきました。
こうして共通する地形を見いだして、アルファベットを順番に振っていくと・・・
なにか、同じような特徴を持っていると、わかってくるんですが。
・南端のA=ωが特徴的
・全体が左右対称に近い形状・A=ω形、B=z形、C=く形、D=z形、E=く形、F=z形
・おおまかな角の数がいっしょ
というふうに。こんなふうに東突厥と栃木の形状が似ているというのは、偶然というより、人為的な意味があると考えます。
なにしろ、上にある東突厥の地図を描いたのは中国人であり、栃木を意識して特徴を真似て描いたとは、思えないし。
東突厥の形は、思った以上に栃木に似ていたからこそ、こんな一致が見えている、そう考えます。
名は体を表すならば、体は名を表す。国の形もまた然り。
ウテュケンと宇都宮
さらに突厥の首都だった、ウテュケンについても分かることありましたで。
ウテュケン山
ウテュケン山(テュルク語:Ütükän yïš)は、現在のモンゴル国にあるハンガイ山脈に比定される山の歴史的呼び名。ウテュケン山(Ütükän yïš)という名は『オルホン碑文』に刻まれているもので、中国史書でも於都斤山[1]、烏徳鞬山[2]、都尉鞬山[3]、都斤山[4]、大斤山[5]、鬱督軍山[6]などと表記された。ウテュケン山はテュルク系遊牧民の聖地とされ、たびたび遊牧国家の首都となった。
ウテュケンって、なんか入力しづらい。
ウチュならUTYU、ウトゥならUTWUで、ウテュってどうやって打つんだろと試行錯誤したら、UTHUでウテュが出ました。まどろっこしい。
漢字をみると、於都斤山、烏徳鞬山、都尉鞬山、都斤山、大斤山、鬱督軍山。
おや、とおもったのは、栃木で古来より宇都宮二荒山神社が鎮座した、宇都宮のウツが含まれるからでした。
於都斤 oto
烏徳鞬 utoken
鬱督軍 ututokun
宇都宮 utu
こんな首都の地名の一致もあったわけです。
すると、突厥が栃木なら、ウテュケンは宇都宮でおかしくないではないかと。
宇都宮って、突厥の「ウテュの宮」だったんだなと、勝手に納得していました。これから宇都宮は、ウテュの宮って呼ばないといけませんね。
時系列でまとめると
むかしの突厥と栃木の間に何が置きたのか、というのは詳しくは分かりません。でもかなり一致が多いことはわかったので、個人的にこんな想像はできました。
A・天皇家とヤマト王権の幹部らは、大陸情報を逐一仕入れていた
B・彼らは日本列島に大陸情勢を取り入れた(諸国の名称と形状)
C・下野国=栃木とは、6世紀の東突厥情報の反映だった(他の諸国も同じ)
D・その叡智は忘れ去られたまま、21世紀に至った
こんな感じではないかと。
すると宇都宮二荒山神社の祭神との関係が、見えくるのですが。
長くなったので、それはまた今度。
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