常識とされてきた学問と、トンデモ解釈を混ぜることに抵抗があるひとがいますが。
今後の人類の展開は、全ての分野でトンデモ解釈とよばれるものが、真実として混ざってくような。
そんな気がしないでもないです。
なんか混ぜられて、練れば練るほど色が変わって、こうやって付けて・・・美味い、練って美味しいねるねるねるねみたいな気がしているので(謎)。
○いつも助かっております
高尾山古墳
以前に消滅か保存かで気になってた、静岡県の沼津の高尾山古墳。どうやら保存が決まったようでした。
この古墳は旧名が辻畑古墳と言って、60m級の前方後方墳です。
古墳に道路を通しながら保存ということなので、地下トンネル方式か高架橋方式だろうと想像してました。そしたら、その両方を組み合わせという斜め上な計画になったとか。
そりゃー新たな幹線道路は別になくても良いし、破壊しても作り直せるけど、遺跡は一度壊したら失われるものだから。正解なんではないかと。
自宅からも近いですが、見に行く気力ないです。あちらのほうは緊急事態宣言だし。
さてこの高尾山古墳が重視されたのは、日本で最古級の前方後方墳だからでした。
年代は3世紀中庸というので、卑弥呼が死去したちょうどその頃。つまり眠ってるのは卑弥呼と顔を合わせた、言葉を交わした経験のある人の可能性が高いです。
ちなみに当ブログでは、昔から崇神天皇と卑弥呼を同一視しています。そんな内容の書籍も出ています。コロナで死ななければ、こんど電子書籍で書き換えようかと。
古墳の候補者
この古墳については古典や近隣の神社などに、被葬者名がまったく伝わってません。
邪馬台国に対立した狗奴国の首長級の人物だとか、あとは駿河の有力者という説が出ています。
しかし歴史書から推し量るに、物部(もののべ)氏の古墳という話で間違いない感じでした。
古来、駿河(するが)国(静岡東部)が3世紀頃から物部氏の土地であったことは、「先代旧辞本紀」から読み取れます。
おそらく静岡東部の駿河地方は、卑弥呼の時代から物部氏の拠点でした。
崇神天皇の年代については、崇神紀で百姓反逆、疫病蔓延などあり、倭国乱的な背景などが読み取れるし、当ブログで書いている通り崇神天皇は卑弥呼が男装したような背景が見えたりするので、3世紀前半と考えます。
すると年代的には、整合する人物は限られるようです。
筆者は崇神天皇の時代に存命中だった、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)以下の物部氏の誰かが、高尾山古墳の被葬者と考えています。
歴史サイトの「れきち」によれば、伊香色雄命には多数の妻子がいました。
伊香色雄命
妻
真木姫・荒姫・玉手姫・真鳥姫
子供
・建胆心命(たけいこころのみこと)
・多弁命(たべのみこと)
・安毛建美命(やすけたけみのみこと)
・大新河命(おおにいかわのみこと)
・十市根命(とおちねのみこと)
・建新川命(たけにいかわのみこと)
・大咩布命(おおめふのみこと)
・印岐美命(いきみのみこと)
・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)
・気津別命(けつわけのみこと)
こんなにいると、この中の誰か一人が真実だとしても、普通はまるでわからんですね、よく作ったもんだ。
しかしヒントはちゃんとあるのです。
・古墳が残ってること
・人物の候補者がいること
・地元の古地名が残ってること
・古墳の矢印の叡知があること
「日本書紀」や前述の「先代旧辞本紀」によると、この物部の主要人物のなかで卑弥呼時代に高名だったのは3名。
崇神天皇に仕えた伊香色雄命
息子の大新河命
息子の十千根命
『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、物部連の祖・大新川命の子の片堅石命が成務天皇朝に国造に任じられたという。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」によると、十市根大連の子で物部胆咋宿祢の弟の、物部片堅石連公が駿河国造の祖という。なお十千根と大新川命は兄弟である。
この3人を中心として真相を求め、他の物部氏の人物も合わせて検討してみます。
まず高尾山古墳周辺の調査から
さて、高尾山古墳がホントは誰の墓なのかは、地元の古地名を調べるとわかることがあります。
高尾山古墳のあたりにみられる古地名をならべました。
珠流河
高尾山穂見神社
熊堂(くまんどう、東熊堂村、西熊堂村)
辻畑
駿河という地名の大元は、沼津にありました。沼津はむかし駿河国駿河郡駿河郷であり、国分寺が置かれた中央でもあったとか。駿河は別名の珠流河のほうが古そう。
高尾山古墳という名は、この古墳のうえに高尾山穂見神社が鎮座したことに由来するとか。この穂見神社は、食物の神さまウケモチ(保食神)を祭るらしいです。
ちなみに以前は辻畑古墳と呼ばれてましたが、本来の大字とは違う土地だったので変更されたようです。
熊堂は江戸時代にここが熊堂村だった名残で、いまも地図に残ります。
このなかでは、駿河が怪しいです。大新河の新河と、駿河・珠流河は、河つながりで似ているので。発音を合わせるように解釈すると、
新河 しんかわ(大新河命)
駿河 しゅんかわ
珠流河 しゅるかわ
似てますね。読み方を変えれば似てくるようにしているような。もしかしたら、駿河国の由来は、大新河命なのか?という想像ができました。
大新河とにかくいうのは、「大きな新しい河」で、この名前自体が新しい国としての駿河を誕生させたこと、に関係してるような感じもしますた。
線引き
では前方後円(後方)墳の中心軸の叡知から、謎を解くことにします。こんな線がでてきまして、いろいろ興味深い発見がありました。冥土の土産になりました。
このライン上の地名や山岳の名前を解明します。
ちなみにこの手法はKindleの電子書籍の拙著「封印された叡智の回復(1)で詳しく紹介しています。」
調査結果(北側)
・高天原山・・・日本神話の八百万の神の住まう山と同じ名前をした山がありました。被葬者には高天原信仰があったのかと。
・千曲川・・・長野の大河ですが。千の字が十千根命に関係していました。
・甲武信ヶ岳(こぶしがたけ) さらに北には甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)がありました。甲武信ヶ岳の「信ヶ」で、大新河の「新河」に対応させているようです。
・荒川の源流 むかし関東一の大河は利根川ではなく荒川でした。その源流が、甲武信ヶ岳に端んをを発する入川です。入川こそが荒川の始発点になっていて、古墳のラインはここを通過。つまり荒川の名前によって、大新河命の「新河(あらかわ)」の名を表すと見られます。
・甲州高尾山 沼津の高尾山古墳と同じ名の山を見つけました。このラインが偶然ではない証拠。
・河口浅間神社 河口湖畔の神社。創建は大新河命よりずっと後、貞観7年(865年)に富士山噴火を鎮めるために建てられたらしい。河口という名はやはり河口湖に由来するとか。
・河口湖 貞観6年(864年に富士山の溶岩でせき止められて、河口湖が誕生したとか。湖がなかったころ、河口という地名だったのだろうか。ちなみに律令制下の都留郡を調べると、河口という郷の名はなかったです。しかし河の字で大新河を示唆するようなので無視できないところ。
・新倉 大新河命の新の字。
・新屋 土地の名が大新河の名を元にするのか。
・新屋山神社 ここは金運アップで有名な、オオヤマツミの神社らしいですが。創建が室町時代とのことで直接的な関係はないとか。
・印野 兄弟の印岐美命と関係する土地なのかと。
封印された叡智の回復 (1): 前方後円墳と神社に秘められた矢印機能 (たっちゃんの古代史とか出版) Kindle版
調査結果(南側)
では高尾山古墳の南側のほうも見てみます。
・下香貫 香貫山のふもとの地名です。香がつくので、もしや伊香色雄を記念する山かもしれません。
・河内川 最初に気になるのは、伊豆半島に河内川の河口があったこと。やはり「河」の字が一致していました。
・河津川 さらに河津川もラインの上に来ました。この川は有名な浄蓮の滝の近く。
・河津七滝 こんな名所が存在しています。やはり「河」。
結論としては大新河命の古墳ということに
こうして発見できた地名は、もう8割がた大新河命に関する名だったというのは、分かるかと思います。偶然じゃないレベルでした。
まとめると、
高尾山古墳の地元の地名
・河 駿河国・駿河郡・駿河郷・珠流河
高尾山古墳の中心線
・新 新倉、新屋、荒川源流(荒=新)
・新河 信ヶ(甲武信ヶ岳)
というわけで沼津の高尾山古墳の被葬者は、大新河命だろう、という推測が成り立つわけですが。
駿河という地名の由来も、じつは大新河命かもしれない可能性も見えたのは発見でした。こういった目線で、高尾山古墳を見てみたらどうかと。