subject(7)主体なき直接世界


subject シリーズ後半の始まりです。まずは、直接視座とはどういう視座なのかについて、例を挙げながらおさらいしておくことにします。

あなたは渋谷で友人A子さんと待ち合わせをしました。多くの人が待ち合わせ場所と利用するハチ公前です。LINEで連絡をとってA子さんは既に着いていることがわかっています。あなたはA子さんを探し10m先に見つけました。

そのときにあなたはどう思いますか。

「いた!」となりませんか。

「A子さんがいた!」とは思わないのではないでしょうか。ましてや「私はA子さんを発見した!」にはならないでしょう。ヨーロッパ言語圏では思うときでさえ「私はA子さんを発見した!」と、自分を「私」として客観視する間接視座での内的世界が開かれます。

「いた!」と思い、そちらへ向かっていけばA子さんも気づきます。そこであなたは「ごめん。待った?」と言い、A子さんは「全然平気!」と応える。ここには「私」も「あなた」もなく、ただ互いの相手方が目の前にいるだけで自分の存在など全く意識していないはずです。

デパ地下を歩いていると美味しそうなケーキを目にしました。

頭の中で「私はこの美味しそうなケーキを食べたい!」と考えるでしょうか。おそらく「美味しそう」だとか「食べたい」だけで、「私」という主語も「ケーキ」という目的語も思い浮かべないと思います。更に言えば、味覚と食感の質感とイメージだけで何の言語的心象もない。

個人差はあると思います。現代人は西洋的な教育を学校では受けてきていますから、主語があって目的語があってという、学校で習った的な(西洋文法的な)「正しい日本語」を頭の中で展開させる方もなかにはいらっしゃるのかもしれませんね。けれど、神の視点を使った客観的、間接的視座に慣れてしまうと、せっかくの直接視座を失ってしまうことにもなりかねません。

言葉の乱れだとか正しい日本語だとかを、世間や学校の先生、文科省らがとやかく言うことがありますが、いったい正しい日本語とはなんだろうかと思うのです。

むしろ、「いた!」「美味しそう」「食べたい」などの述語だけ、或いは固有名詞だけを口にするとき、日本人同士ではコンテクストを共有できることが多いため、より自然な表現になります。こちらの方が日本的「視座」での自然体かつ正しい日本語だと言っても良いくらいです。

 

subject は消えてしまっているのです。あとかたもなく。A子さんを発見し「いた!」と判断するのが下の図です。

 

ケーキを見て「美味しそう」「食べたい」となるのは無自覚に自分の内部で観念化(表象化)しているので下の図になります。

 

そして、A子さんやケーキという object も消えてしまいます。二人で一体となって行動している感が強まり、「美味しそう」や「食べたい」も消え、ケーキは口の中に入っているような状態になって、味覚と食感を想像して感じているのが下の図です。

 

私は subject が消えてしまったと書きました。また、object も消えてしまうと書きました。しかし発想を逆転させれば、最初に subject も object もなかった、直接視座だけがあり、そこに object と subject が加わったというロジックの展開も可能です。

直接視座での認識と表現をごく自然に、無意識のうちに行っているのが日本人です。母国語である日本語の会話構文のスタイルが、直接世界の感覚表現を可能にしていることによって、この視座が日本人に自然に具わるようになっているのです。

もちろん、神の視点である実在論的視座と観念論的視座の認識と表現も、日本語でもともとできるようになっています。けれど日本人が優先してきたのはこの直接視座です。

国学の中興の祖といえる本居宣長に「もののあはれ」という思想がありますが、ここでの「もの」というのは object ではなく、object と自分の心が一体化した『世界そのもの』の哀情です。

 

 

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