林太郎です。
今更ながらですが、演じるということは「他人を知ること」なのだと学ばされています。役者が誰かを演じるにはその役について知らなければ本当の意味で演じることができないのです。
たとえば僕は舞台『新・銀河鉃道に乗ったサギ』でヤクザの「仁」を演じましたが、いま振り返ってみると僕が演じたのは「仁」という一人の人間ではなく"ヤクザ"だったのだと思います。
というのも、この作品で役を頂いたときに僕は、自分がこれまでの人生の中で見てきたヤクザを想像して(映画なども含めて)、ディテールが足らないところはそれらしい人を観察したりして、こんなもんかなという所で演じていたと思います。
これは詰まるところ、「仁」を演じたのではなくヤクザを演じていたのだと自分の演技を振り返って思うのです。いや、もしかするとヤクザすらも演じられていなかったかも知れません。
終演後に二、三人のお客様から「河辺さんは本当はヤクザだったんですか?」と聞かれることがあったので上手く演じられたのだと思ってはいましたが、いまにして思えばそれも怪しいものです。
自分では「仁」という人物がどんな人生を送ってきたのかを台本から想像してはみたものの、細部のディテールまで辿ることはできていませんでした。
その僕の演技を見てお客様が「仁」だったと言ってくださるのは、そもそも台本が"当て書き(僕がこの役をする事を想定して書かれたもの)"だったからでしょう。
役者でなくても、どんな人でも、ヤクザのフリをしたり、警察官のフリをしたり、誰かのフリをする程度ならば誰にでもできると思いますが、役者が「フリ」をしていたのでは演出家が思い描いている役どころの内面の世界を伝えることはできません。
役者にはその人物に成り切ることが要求されているのです。
たとえばヤクザの役を与えられたならば、そのヤクザがどんな人でどんな経緯を経てヤクザになり、何故今ここにいるのかまでディテールを辿っていくことで、「フリ」ではなく、他の誰にも演じられない役どころを演じることができるのだと思います。つまり、
演じるとは
「他人を知ること」
なのだと思います。
この点に関して僕は座長から観察力が足らないと指摘されるのですが、これは僕にとっての課題です。
そして役者には想像力も必要で、観察したことをもとにして想像力を膨らませて、自分だったらどうかという視点で追体験しなければ「フリ」で終わってしまいます。
役どころの魂が演技に宿るという状態は、想像力を働かせて追体験した結果ではないかと思います。でも僕には想像力も足りません。
観察力と想像力。役者にとって最も重要なものが足りていないという、、、致命的な欠陥を克服するためにも、自分の現状を理解し課題を明確にて、常に意識的に観察力と想像力を磨いていきたいと思います。
以上。
河辺林太郎でした。
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