「エイリアン、故郷に帰る」の巻(34) | 35歳年上の夫は師匠でエイリアン! 

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【夫】台湾人 × 【妻】日本人

国際結婚? いえ、惑際結婚ですから!

気がつけば2男1女。

あの男を見ていると、とても同じ人類だとは思えない。
漢方薬を水なしで飲めるなんて
一体どんな味覚をしてるんだ、あのおっさんは。

「エイリアン、故郷に帰る」の巻(33)

 

 

 

 

 

師匠が横たわっているベッドの足元には、

ECMOという機械が置かれていた。

 

 

この機械を検索してみると

色々と説明が出てくるが、

 

ドクターからは、

 

 

 

 

 

 

 

「これは、血液を循環させて、きれいにする機械です。」

 

 

 

 

 

 

 

大まかに、こんな説明を

受けたように思う。

 

 

 

 

 

 

 

もう、人工透析じゃダメなんだろうか...

 

 

 

 

 

 

 

私は、先生が腎臓を患っている

理由が分かるように思う。

 

 

 

腎臓は、東洋医学的に言うと、

人間の “精”、つまり

生命活動エネルギーを司る臓器だ。

 

 

 

肝心要という言葉があるが、

この肝心は、肝腎とも書く。

 

 

 

それだけ腎臓は、人間にとって

重要な臓器だということだろう。

 

 

他の臓器と同じで、

若ければ若いほどその働きは盛んで、

 

年を重ねるごとに弱まっていき、

また臓器自体も小さくなっていくという。

 

 

また、加齢以外にも。

 

 

何かに根を詰めれば詰めるほど、

負荷がかかり、その機能は衰える。

 

つまり。

疲れて消耗してしまう。

 

 

 

 

 

 

これだ。

先生の腎臓が悪くなった原因は。

 

 

 

 

積年の疲労が祟ったに違いない。

 

 

 

 

 

前にも書いたが。

 

師匠は、大きな病院や医者から

見放された患者さんを何人も診てきた。

 

 

そして。

成果を上げた。

 

 

 

ただ。

 

先生は魔法使いじゃない。

生身の人間だ。

 

 

 

その師匠が、どうやって

患者さんを治してきたか。

 

 

 

 

ひとつには、技術。

 

そして。

 

もうひとつは、

自分のエネルギーを使って。

 

 

 

先生は、鍼と手技を通して、

自分のエネルギーを患者さんに

差し上げることで治していたのだ。

 

 

ならば。

 

 

患者さんの体を巣食って

病の原因となっていた “気” は

一体どこに行ったのか...?

 

 

 

師匠が自分のエネルギーを

患者さんに送り込むことで

相殺されていたのか。

 

 

その結果。

 

 

浄化でもされて、大気中に

流れてでもいったのか。

 

 

 

いや。違う。

 

 

 

師匠が全部代わりに

引き受けていたのだ。

 

 

その体に。

治療の度に。

 

 

長年の間、そうやって、

患者さんの体を治してきたのだ。

 

 

その結果。

 

精も根も尽き果てて

しまったに違いない。

 

 

 

 

 

 

実際。

 

脳梗塞による半身不随の

患者さんの治療の後。

 

 

 

 

 

 

 

「治療の後はね。疲れるよ。寝込んじゃうよ。

次の日は仕事にならないよ。」

 

 

 

 

 

 

 

師匠は、当時の治療を振り返って、

こう話していた。

 

 

 

 

 

 

 

「先生が引き受けた患者さんの悪い “気”。

そのまま体の中に残っていたら、

今度は先生が病気になってしまいますよね?

どうしてたんですか...?」

 

 

 

 

 

 

 

私がこう訊くと、

 

 

 

 

 

 

 

「気功だね。座禅したよ。」

 

 

 

 

 

 

 

この時は、

 

 

 

 

 

 

なんともまあ。

次元の違う、すごい話だな...

 

 

 

 

 

 

こう思った。

でも、同時に。

 

 

 

 

 

先生の体は、

それで本当に大丈夫なんだろうか...

 

自分の体に引き受けた悪い気を

本当に気功や座禅で、

全部体の外に放り出せるのかな...

 

 

 

 

 

 

こうも思った。 

 

 

 

 

私は、師匠の気功の能力を

疑っていたわけではない。

 

 

先生の体を見れば、

疑う余地はなかったから。

 

 

 

私たちが初めて出会った頃。

 

50代も終わりに差し掛かり、

そろそろ還暦に届こうかという師匠の体は、

まるで小柄なダビデ像みたいだった。

 

 

 

しなやかな流線形の筋肉が

実にバランスよく体全体に

配分されていて、とても美しかった。

 

 

 

これ見よがしに、つき過ぎず。

嫌味なほど、出しゃばらず。

 

でも。

 

寡黙ながらも、堂々と

その存在を主張するような。

 

特に。

 

三角筋と大腿四頭筋が

惚れ惚れするほど上品で美しかった。

 

 

 

 

こう思っていることを、

本人に伝えたことはないけれど。

 

 

 

照れくさ過ぎて無理。

調子に乗りそうだし。

 

 

 

 

 

 

 

これに加えて。

 

師匠の体の丹田の辺りは、

まるでコンクリートのような固さだった。

 

 

おへその下、下腹部の辺りを丹田と呼ぶが、

ここには、“気海” というツボがある。

 

 

「気の海」

読んで字のごとく。 

 

 

この辺りが強固だということは、

その人の気も、その通りだということだ。

 

 

 

 

師匠は普段、ジムに通っていたわけでも、

プロテインなどを飲んでいたわけでもなかった。

 

 

 

だから、先生のあの体は、

気功の賜物だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

ということは、やはり。

 

 

 

 限界があったのだ。

 

 

 

物言わぬ体の中の臓器は、

長年に渡って耐え続けた挙句、

とうとう悲鳴を上げたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

目には見えない、この “気” の話。

私には、信じられる理由がある。

 

 

 

実体験だ。

 

 

 

 

 

 

「腰が痛いんです。」

 

 

 

 

 

 

こう訴えてこられた患者さん。

 

 

初めての鍼施術の後、

6割方、痛みが取れたとおっしゃった。

 

 

 

その日の夜。

私は腰に痛みを覚えた。

 

 

ちょうど、患者さんが痛みを

訴えていたのと同じ辺りだった。

 

 

その日の朝までは、

腰に痛みなどなかったのに。

 

 

私は普段、腰痛持ちではない。

 

 

 

 

 

 

この他にも。

 

 

 

 

 

 

 

「数年前の熱中症の後遺症だと思うんですが、

午前中はずっと頭がボーっとするんです。」

 

 

 

 

 

 

こう訴えてこられた患者さん。

 

鍼を刺した次の日の午前中には、

いつもの症状が出なかったとおっしゃる。

 

 

ところが。

鍼を刺した同じ日の夜。

 

 

私は頭に痛みと重みを感じた。

 

 

この時も。

 

その日の朝までは、

なんともなかったのだ。

 

 

私は普段、頭痛持ちでもない。

 

 

 

 

 

 

 

こういう体験を繰り返すと、

信じるしかなくなるのだ。

 

 

 

患者さんの痛みや症状が軽減したのは、

私が引き受けたからだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのね。鍼を勉強するのはいいことだよ。

私が君に教えてあげるのも構わない。

でもね。鍼は長く続けない方がいい。」

 

 

 

 

 

 

 

ある時。

 

真剣な面持ちで、伏し目がちに、

師匠がこう言ったことがあった。

 

 

 

 

 

 

 

先生が言っていたのは、

こういうことだったのか...

 

 

 

 

 

 

 

呆然としつつ。

愕然としつつ。

 

私は、あの日の師匠の言葉の真意を

自分の体ではっきりと悟った。

 

 

 

 

 

 

だったら。

それならば。

 

 

 

 

今度は。

今度こそは。

 

 

 

 

 

先生が助けてもらう番なんじゃないのか。

 

 

 

 

 

先生は今まで、たくさんの人を

助けてきたじゃないか。

 

 

 

 

 

無料で診てたわけじゃないだろう。

 

治療費をもらってたんだろう

とでも言うのか。

 

 

 

 

 

 

やかましい。

 

 

 

 

 

 

難病を抱えた患者さんは、

たとえ全財産を積み上げたところで、

 

治せるような医者が見つからなかったから、

先生のところへ来たんじゃないのか。

 

 

 

お金で解決できなかったんじゃないのか。

 

 

 

 

 

 

違うのか。

 

 

 

 

 

 

 

先生は、たくさんの人の

希望になってきたじゃないか。

 

 

 

 

 

だから、今度は。

今度こそは。

 

 

 

 

 

 

先生が希望をもらう番なんじゃないのか。 

 

 

 

 

 

もらっちゃいけないのか。

 

もらっちゃいけない

理由でもあるのか。 

 

あると言うのなら、

今すぐ並べてみろ。

 

 

 

 

 

ずっと。ずっと。ずーっと。

長い間。

 

 

 

 

 

先生は自分の体を犠牲にして

たくさんの人に尽くしてきたじゃないか。

 

 

 

 

 

 

違うとでも言うのか。

 

 

 

 

 

それとも何か。

 

褒美は来世まで待てとでも言うのか。

孫子の代で返してやるとでも言うのか。

 

 

 

 

 

 

 

ふざけるな。

今すぐ返せ。

 

 

 

 

 

 

 

いや、それとも。

 

今までの仕事が全部チャラになるような

悪事を先生が働いたとでも言うのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死ぬほど口惜しいし。

認めたくはないが。

 

 

 

分かるような気はする。

 

薄々。

何となく。

 

 

 

これは、きっと。

 

何かをあげるもらうの問題じゃない。

何かを返す返さないの問題でもない。

 

 

 

 

恐らく。

 

私は、自分の思い通りの展開に

ならないことに腹を立て、駄々をこねている

子供に過ぎないんだろうことも。 

 

 

 

 

森羅万象の中、人がその生涯を

生きていく上で起こる様々な出来事。

 

そのひとつひとつは、

 

とても私などに理解できるような単純な理屈で

成り立っているのではないのだろう。

 

 

 

すべてのことには、すべて理由があって、

すべて起こるべき時に、起こるべくして、

寸分違わず正確に起こっているのだろう。

 

 

 

でも、私には、

その仕組みが分からない。

 

一体誰の、或いは何の

どんな意図によるのかも。

 

 

 

だから。

どうしても。

 

天に向かって悪態をつく。

 

 

でも。

天に向かって懇願もする。

 

いや。

媚びへつらう。

 

 

毎日毎日、これでもかというくらい

晴れ渡った台北の空を

 

心底苦々しく、忌々しく、憎々しいと

思う感情を押し殺して。

 

 

 

 

 

 

もう、祈る以外に、

私には何もないから。

 

 

 

 

 

 

だから。

 

天に唾を吐きかけたくなる

衝動を騙し殺して、祈る。

 

 

 

 

 

 

私が師匠の代わりに死ねるのなら、

ぜひとも、そうしたい。

 

先生のためじゃない。

自分のために。

 

こんな思いをするくらいなら、

自分が死ぬ方がよっぽど楽だと思う。

 

 

でも。

 

 

私たちには子供が3人いる。

3人とも、まだ親が必要な年齢だ。

 

 

先生ひとりで、3人の子育てが

できるとは思えない。

 

 

恐らく、無理だろう。

 

 

だから、先生の代わりに私をと、

願うことはできないのだ。

 

 

 

 

先生が助かる。

私も一緒に生きる。

 

そして、ふたりで

子供たちの成長を見届ける。

 

 

 

私の願いの選択肢に、

これ以外はない。

 

 

 

それが。

 

そんなに我儘なことなのか。

そんなに欲深いことなのか。

 

 

天が呆れてひっくり返るほど、

到底聞き入れられないほど、

大騒ぎするほどの一大事なのか。

 

 

 

 

この願いが叶えられると、

誰かが困るのか。

 

 

 

 

それとも。

 

こんなことを考えていること自体が

見当違いだとでも言うのか。

 

 

 

それならそれで。

 

一体、私はどうしたらいいのか。

一体、私はどう考えたらいいのか。

 

どこかに正解でもあるのか。

 

 

 

 

教えてくれたっていいじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頭が爆発しそうなくらいの

怒りと祈りが体中でせめぎ合いながら

渦を巻いていたあの頃。

 

 

 

 

ECMOの傍で立ち尽くし、

師匠を見つめていた私の表情は、

 

きっと、何かを思い詰めたような

恐ろしい形相をしていたんじゃないだろうか。

 

 

 

 

今なら分かる。

 

いや。

今だから分かる。

 

 

嘘でも何でも。

 

 

先生の前にいる時だけは、

薄ら笑いでも、作り笑いでも、

芝居でいいから、口角を上げた顔を

見せておくべきだったと。

 

 

 

 

でも、あの時は。

 

そんな自分の姿を

先生の前で晒し続けることが、

どれほど申し訳なく、罪なことなのか。

 

 

 

そのことに気がつくだけの

心の余裕が微塵もなかった。

 

 

 

 

もう。

ただただ。

 

自分の感情だけが、

世界のすべてだった。

 

 

 

 

 

若かった。

 

 

 

 

 

そう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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