日本国家という大きな家族の物語

リアルの日本神話。まったく知られていない日本の古代史(日本神話)の出来事を順序だてて紹介する。一つの歴史ストーリーとしての作品。特に歴史の主人公として饒速日(ニギハヤヒ)をクローズアップ。

 

千田寛仁


プロフィール

1氏名.千田寛仁 2氏名仮名.ちだひろひと 3年齢.49歳 4職業.僧侶 5性別.男性 6郵便番号.633-0083 7住所.奈良県桜井市辻67番地7-403 8電話番号.090-9428-2272 9メール.midoridrive@gmail.com 10対象.日本神話に興味のある方全般


 

 

 

日本史創世秘話~現実「リアル」の日本神話~

 

 

 ~はじめに~ 世界文明の発祥地「日本」


 さて、皆さんは、世界の文明の発祥地がどこであるか分かりますか。

 紀元前5300年のメソポタミア文明、紀元前3000年のエジプト文明、紀元前2500年のインダス文明、紀元前3000年の黄河文明と、教科書で覚えたことでしょう。


 さることながら、日本の文明については、分かっている限りでも、青森県外ヶ浜町大平山元遺跡においては、16500年前の縄文土器が見つかっています。


 また、福井県鳥浜貝塚では、12600年前の漆器が見つかっており、鹿児島県上野原遺跡からは、12000年前の稲のプラントオパールが検出されています。


 この通り、日本は世界文明の発祥地と言えます。


 


 


 


 


 


 

第一章 国の興り

 神道の祝詞、大祓詞にある通り、大倭日高見国が最初に興りました。年代は分かっていません。場所の推定は、岩手県の北上川流域で、北上市臥牛の水乞山を神山としました。大倭日高見国では全ての国民にお米を支給する国民配当が行われていた為、人寿も長く、国は安泰していました。

 次に興った国は、石川県金沢市の耶靡堆国(やまたいこく)です。邪馬台国は中国からの蔑称であることを覚えておいてください。耶靡堆日子(やまとひこ)とも阿毎氏(あめ)とも言われる初代王は、耶靡堆国明日香(やまたいこくあすか)の箸香(はしはか)の山を三輪山(みわやま)と名付けました。


 


 


 


 


 

第二章 日本神話

 耶靡堆国が飛騨高山に営まれていた折り、大倭日高見国の多賀の皇子伊弉諾命(いざなぎのみこと)が飛騨に赴き、皇女伊弉冉命(いざなみのみこと)と結婚なさいました。

 二人の間に、長女、大日靈貴命、長男、月読命、次男素戔嗚命が産まれました。

 紀元前250年頃、大地震と疫病が飛騨の首都を襲いました。

 伊弉諾命、伊弉冉命、高木神は、高天原で諸王を集めて遷都の協議をしたところ、現在の奈良県桜井市に首都を移すことになりました。

 飛騨高山より、8万4000人が伊勢白山道を下り、大和の地を目指しました。

 そして、大和に着いた際に、受け入れてくれたのが、桜井市笠の秦家の人々でした。

 まだ、当時の大和盆地は湖のような状態で、広海(ひろみ)と申しました。その大和盆地の水を海に出す灌漑工事をなされていたのが、三嶋湟咋(みしまみぞくい)です。


 この頃、大和盆地は三嶋湟咋の所領でした。


 笠の鷲峰山に皇居を構え、素戔嗚命がまだ幼少であったため、長女の大日靈貴命が天照大神の位を継承し、高木神の御子の八意思兼命が夫となり政治しました。


 長男の月読命は、出羽の国を治めるため赴任されました。


 次男の素戔嗚命も成人して、侍女の替矢姫と生活していましたが、やがて懐妊して、素戔嗚命が、次の皇統位をこの子に授けたいと替矢姫に言ったのです。


 素戔嗚命に子が出来た噂を聞いた姉の大日靈貴は、皇統位を奪われると思い、素戔嗚命夫妻を皇居から追い出しました。

 そうして、二人が住んだのが、皇居から離れた東の淋しい所でした。


 冬の寒い時期に替矢姫が機織りをしていると、気性の優しい素戔嗚命は、すでに死んだ馬の皮を剥いで、機織りの椅子にかけてあげました。


 大日靈貴命からの迫害が厳しくなり、 会議の結果、素戔嗚命を国外追放にするという知らせを替矢姫は聞いて、替矢姫は自分のせいだと思い苦しまれ、箸でほとを突いてお亡くなりになられたのです。

 亡くなられた替矢姫の亡がらが細川で洗われ、帰らずの墓に葬られました。


 替矢姫を失った悲しみを胸に、素戔嗚命は、ダンノダイラの出雲族の人々を引き連れて、桜井市の三輪山の東南の出雲の港を出発しました。当時初瀬川の幅は数百メートルあり、湖のようであったといいます。


 そして、現在の京都府の亀岡(旧亀山)まで行き、その後、和歌山県有田の千田から出港して新羅へと向かったようです。


 新羅で農耕するにはこの土地は向いていないとして、日本に帰る際に、秦の遺臣たちが、わたしたちもどうかあなたの国に連れて行ってくださいと言って、素戔嗚命に御伴したようで、その秦の遺臣たちを、歴史では八咫烏と呼んでいます。

 素戔嗚命一行は、島根県出雲に到着しました。

 素戔嗚命は奥出雲の主足名稚命(あしなづちのみこと)の娘櫛名田姫命と結婚しました。

 また、大山祇命の娘、神大市姫とも結婚し、大歳を儲けています。

 素戔嗚命の娘の須勢理姫命と、大国主命が結婚しました。


 やがて、笠の八意思兼命が崩御して、困った天照大神大日靈貴命は、素戔嗚命を笠に呼び戻すことにしました。

 大日靈貴命と八意思兼命との間には、5人の子どもがいました。天忍穂耳命、天菩日命、天津日子根命、天活津日子根命、熊野久須毘命です。

 古代は末子相続の習わしであったので、熊野久須毘命が、皇統位を継ぐ予定でした。

 天菩日命は、素戔嗚命が笠に帰ってきてから、出雲の視察に行っていましたが、すぐに戻ってきました。

 次に、笠から天若日子命を送りましたが、8年経っても戻ってきませんでした。

 それで、笠から視察の雉鳴女が出雲に派遣されます。

 天若日子命は、大国主命の娘、下照姫命と結婚していたのです。

 雉鳴女は、天若日子命の家の戸を叩き、泣きながら笠に戻ることを懇願しますが、天若日子命の召使いの女性が、あの声は不吉ですから殺してしまいましょうと言って、天若日子命は雉鳴女を射殺してしまったのです。

 これを聞いた高木神は、天若日子命の射殺を部下に命じ天若日子命は命を落としました。

 熊野久須毘命も、出雲に居て、大国主命の娘と結婚していましたが、さすがに双国に暗雲立ち上ることを察して、離婚して笠に帰ったのでした。


 大国主命は、熊野久須毘命を追って、ダンノダイラで談判しましたが、その際に、熊野久須毘命は脚を滑らせて、谷に落ちて亡くなられたのです。

 このことで、笠と出雲は戦争の火蓋を切ったのでした。


 熊野久須毘命を失った天照大神大日靈貴と叔父の高木神は、深い悲しみの中にいました。

 皇統位を長男の天忍穂耳命に授けようとしましたが、天忍穂耳命は熊野久須毘命の事件を忌み、皇統位を受けようとしませんでした。

 そして白羽の矢が立ったのが、天忍穂耳命の長男の饒速日命です。

 饒速日命は、祖母の天照大神大日靈貴より、皇統位継承の彌徴である十種神宝を授かり、32人の御伴を従えて、出雲に行き、大国主命の娘天道日女命と結婚します。

 その後、秋田の鳥海山(鳥見山)に行くや、九州の大山祇命と話を付けて、日本全国を統一して周りました。

 それで、戻ってきた地が、東大阪の日下(くさか)で東北の日ノ本の名を近畿におろしたわけです。

 生駒を順路して、笠に帰る途中、三嶋湟咋の王子登美明国(長臑彦命)に出会い、妹の活玉依姫と結婚し、宇摩志麻治命と櫛玉姫命を儲けました。

 饒速日命は耶靡堆国を耶馬臺国と改め、桜井市の神山を三輪山と称して、お住まいになられました。

 饒速日命が九州を統一した後、邇邇芸命は九州へ天孫降臨して、大山祇命の娘鹿葦津姫と結婚して九州を治め、九州が耶馬壱国となりました。


 桜井市の耶馬臺国の下(もと)に筑紫九州を耶馬壱国、南海道三重和歌山を耶馬弐国、出雲を耶馬三国、東国関東以上を耶馬四国と称しました。

 高木神は出雲を完全に笠の傘下にしようと、建御雷神と経津主神を出雲に派遣し、この最後の決着が、出雲国の伊奈佐之小濱(イナサノオバマ=稲佐の浜)で行われて、出雲国側が負けたことにより、建御名方命は信濃長野へ逃れて、そして開かれたのが諏訪大社の地域です。

 勝った笠の健御雷神は坂東の守りをして鹿島大明神となりました。経津主神は、香取大明神として香取神宮に祀られています。

 降伏を促される際に大国主命は、息子たちに聞いてくれと言い、建御名方命は、兄に聞いてくれと言い、長兄の八重事代主命は、美保関(みほのせき)より旅立ち、大和入りしました。

 八重事代主と、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ・加毛大御神・賀茂建角身神)は、奈良県の葛城山で、笠と対峙していました。

 八重事代主命は、理不尽なこの争いを早く終わらせたいと考え、 船で笠を目指しました。白川を上り、辿り着いた所に美しい女性と巡り会ったのです。

 女性は櫛玉姫と言いました。

 何と、櫛玉姫は饒速日命の娘だったのです。

 八重事代主は、饒速日命に事情を申し上げ、笠と出雲の戦争を終わらせるために、櫛玉姫を妻に娶り結婚して、ここにめでたく、笠と出雲は和睦したのでした。

 時は経ち、九州地方が干害や飢饉に見舞われた折りに、邇邇芸命の孫である五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いないのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、佐怒彦命(さぬひこのみこと)が、大軍で大和を目指したのでした。

 最初、難波の港より大和に侵入しようとしました。

 ところが、登美明国(長臑彦)が、これを阻止し、五瀬命は矢に撃たれて亡くなりました。

 佐怒彦命は、東の太陽に向かって進軍したのがいけなかったと反省し、今度は和歌山から熊野道を通って、八咫烏の人々に案内されながら、大和入りを果たします。

 この八咫烏のメンバーに居たのが、 阿遅鉏高日子根神です。

 佐怒彦命は、吉野の山を来る折りに、井光姫命(いかりひめのみこと)に出会っています。

 饒速日命が、佐怒彦命に招集をかけた際に、天孫の皇子ならば天の彌徴(みしるし)の弓矢を持って来るように申し渡されたのですが、佐怒彦命はこれを持っていなかったので、再び井光姫命の元を訪れ、彼女の父君白雲別命より、天の彌徴の弓矢(天羽羽矢)を借りて、それを饒速日の命に見せたようです。

 饒速日命に考えがあり、三輪山の池の辺に孫娘の伊須氣余理姫命を待たせ、佐怒彦命がうまく彼女をエスコートして宮へ連れてきたら合格としようとしました。

 すると、佐怒彦は上手く彼女に取り入り、気に入られて、めでたく、婿養子として迎えられ、その佐怒彦命こそが、後世に神武天皇と呼ばれる初代天皇です。


 

 全国に三輪神社があり、大物主命(饒速日命)を祀っている通り、饒速日命は、日本全国の祖である皇祖ですから、皆さんそれぞれにこの物語を胸で育ててください。

 

 

 あとがき

 日本の古代史を解くことに時間を費やしてきましたが、産まれたところが岩手県北上市(大倭日高見国)で、育ったところが奈良県桜井市三輪山(豊葦原瑞穂国)であったことから、奇蹟的に史実が解りました。また、そうした中で地元の長老との出会い、リアルの神話を知り、精査しながら本日皆様に物語をお届けできるようになったことは誠にめでたいことであると感じております。

 

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日本国を最初に統一した饒速日命

1話 饒速日命をご存じでしょうか。

 

 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は、別名を大物主といい、読んで字のごとくに物主の長、天津神国津神双方の軍事の最高責任者であられました。幼名は布留(フル)です。

 

 日本国を最初に統一した方であり、最後の天照大神(アマテラスオオミカミ)でもあります。

 

 また、1400年の長きに渡って三輪山平等寺(ミワサンビョウドウジ)で本尊として祀られている仏でもあります。

 

 天理の石上神宮では、第11代垂仁天皇の頃から饒速日命の8代孫の物部十千根大連(モノノベノトヲチネノオオムラジ)によって祀られています。

 

 饒速日命がお生まれになったのは、桜井市の笠であり、成人後は九州を治めに行ったり、鳥海山のほうへおもむきになられたりとご苦労多い方であられました。東北に御判した部下に、阿遅鋤高彦根(アヂスキタカヒコネ)といい、大国主の息子で迦毛大神(カモノオオミカミ)と呼ばれる人がおられます。その人は京都府下鴨神社の祭神賀茂建角身神であられます。

 

 

 

 饒速日命の素性は、思兼命と天照大神大日孁貴(オオヒルメムチ)の皇子、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)と栲幡千千姫命(タクチハタチヂヒメノミコト)の長男で皇子であられます。弟は邇邇芸命(ニニギノミコト)といって、九州に天孫降臨した人物で、饒速日命が治めた九州に赴任して大山祇神の娘鹿葦津姫(カシツヒメ)と結婚して、九州を治めておられます。

 

 

 

 邇邇芸命の孫の佐怒彦(サヌヒコ)は饒速日命の孫娘の伊須気余理姫(イスケヨリヒメ)と結婚し、後世に初代天皇「神武天皇」と呼ばれています。

 

 

 

 饒速日命の皇后は、活玉依姫(イクタマヨリヒメ)といい三嶋湟咋(ミシマミゾクイ)の娘であります。三嶋湟咋は元々の奈良地方の支配者でありました。また、この頃の奈良の三輪山の主は三嶋湟咋の息子の登美明国(トビノアキクニ)といって俗には長髄彦と言われております。

 

 

 

 石川県金沢にある三輪山の名称を奈良県の三輪山に移し、饒速日命は三輪山平等寺の旧本堂跡(現在春日社)のあたりに御住みになられました。

 

 

 

 性格は温厚で、軍事の長でありながら、武力による支配を好みませんでした。皆平等に公正に納得のいくまで話し合い、平和裏にことを治めていくので、誰からも愛され、今もなお信望が篤いのです。581年、聖徳太子8歳の折り、百済から来た観音像を饒速日命と頂礼して三輪神社に納めていた像を祀る寺を三輪神社の上方に祀るようになったのが三輪山平等寺の始まり大三輪寺(オオミワデラ)の創始です。

 

 

 

 饒速日命は皇室の日嗣の徴である十種神宝を継承しておいでになられ、ひふみの祝詞を後世に残しておられます。

 

 

 

 元来この国では、三輪山を所有した者が国を統理する習わしでありますが、三輪山は垂仁天皇の御代、出雲教の侵攻に遭遇し、鏡を志摩郡磯部町千田(後に持統天皇の御代に伊勢神宮内宮建造)に、皇祖饒速日命の御霊を石上神宮に移しています。仏教者は、皇祖の御霊は三輪山で祀らなくてはならないとして、三輪山平等寺で皇祖饒速日命の霊を祀ってきました。

 

 

 

 平安時代には、弘法大師空海が境内に遍照院を建て、伝教大師最澄が、当山参学の後に京都の大比叡に大物主(饒速日命)を分霊して延暦寺を起こしました。

 

 

 

 鎌倉時代に、慶円(キョウエン)は、仏教と神道の大事を修する宗教施設として、三輪社を拡大し「三輪明神」(ミワミョウジン)を起こしました。そして、三輪山平等寺は、三輪神社、大御輪寺、浄願寺を一元管理する別当寺院として、明治4年の廃仏毀釈まで運営されてきました。

 

 

 

 その三輪山平等寺や藤原家の菩提寺多武峰妙楽寺を復興したのが、私の父丸子孝法です。

 

 

 

 日本全国饒速日命の子孫であることを前提として、丸子も、聖徳太子第三皇子麻呂古親王の末裔であり、麻呂古(まるこ)は、政難を逃れて山形県に行きました。そして拠点とした神山が立石寺すなわち山寺です。

 

 

 

 清和天皇の勅命で慈覚大師円仁が立石寺を開山するより以前に、丸子の一族が、山寺を守ってきて、実に天台宗初代座主の義真や、四代座主の安慧は丸子家の方でした。

 

 

 

 織田信長公に比叡山を焼き討ちされた後、立石寺の法灯を比叡山に納めたことや、東大寺大仏建立の金2700kgを採掘して納めたのも丸子のなせる技でした。

 

 

 

 出羽国一ノ宮の大物忌神社があることをご存知の御方もございましょうが、丸子家が崇敬し、お仕えしてきたのが、三輪の神すなわち饒速日命なのです。

 

 

 

 饒速日命は、日本全国の先祖であることから、寺社にても、どなたの家でも、各自いる場所で、想像して会うことができるのです。皆様どうぞ、何もなくとも、力添えを得たい時には、饒速日命を思い出すようにしてみてください。饒速日命を想像する時、饒速日命はあなたの胸の中に祀られているのです。

 

 

 

 ひふみ祝詞を覚えたい人には、教えています。

 

 090-9428-2272 千田寛仁(チダヒロヒト)までどうぞ。メール midoridrive@gmail.com

 

 時間の無い人は、「千田寛仁 ひふみ祝詞」で検索。

 

 人間誰しも最期は呼吸が困難になります。その時、ひふみ祝詞を意識で唱え

 

 復調するのを待つことが大切となってきます。

 

 神道の奥義中の奥義ですから、覚えるようになさって御活用になられますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大祓祝詞 大祓詞の意味 現代語訳 完全版 ~おおはらえのことば にっぽんのおしえ~

 

 

 紀元前250年頃、大地震と疫病の災いが、岐阜県飛騨高山の高天原(国会)を襲いました。岩手県大委日高見国の多賀より、皇子イザナギノミコト一行が救済のために高天原に派遣されました。この時イザナギノミコトとイザナミノミコトが結婚なさいました。そして、国会を招集して、あらゆる代表者を集めて会議を設けました。反対する意見を退けて、審議の結果、奈良県桜井市三輪山(登美国、豊葦原水穂国)に遷都することになりました。



 

 イザナギノミコトとイザナミノミコトは、8万4千人とも言われる一族を伴って飛騨高山より、畿央を下って三輪山を目指します。この会議のときに代表者の人々を前に長老は神代の話をしました。祖先はプレアデス星人であり、オリオン星人の隷属的な政治を批判した政治介入から、オリオン星人の逆鱗に触れ、電磁波による超音波攻撃を受けて、瀕死の状態となって耳の病いを逃れて、宇宙船に乗って、かつて宇宙より大きな隕石を振りきり雲をわけて地球に降りてきました。



 

 やがてメソポタミアと岩手県北上市水乞山(大委日高見國)を中心に日本の祖先はほうぼうへ渡っていきました。早池峰の太柱を立て水乞山に神殿を立ててこれを国会とし、高い千木を建てて、宇宙の避難地、太陽系の避難地としました。



 

 大委日高見国を首都とする日本に出てきた、宇宙出身の子孫たちが行った諸々の罪は、宇宙からの罪、地球上の罪、ここの罪として発生しました。そのように出てきた罪や災いを、宇宙出身の人々の科学力を持って、鎮めます。



 

 天つ金木は電子を放出する金の塔であり、それは気象の災いや人心の乱れを原因から結果まで治します。



 

 神の倉に置いてある宇宙からの装置、天つ金木の周波数を八針(7.83Hz)にして、ひふみ祝詞を奏上しましょう。



 

 ※上下、陰陽、和して、善い物事を分け合い与えあい、強い愛と謙虚な気持ちで、新たかに修復します。



 

 そのように唱えれば、宇宙からの技術者は、障害となっている周波数を整えます。地球上の指導者は、田舎の役所や都会の役所に指令して、田舎の家々や都会の家々の隅々まで聞こえるように教えて回ります。そのように、聞かせて回れば、罪というような罪は消えてなくなります。



 

 罪や汚れの風や天に幾重にも重なる雲を吹き放つように、朝の霧や夕の霧を、朝風夕風が吹き払うことのように、大きな岸にある大船を解き放ちて大海原に押し放つことのように、彼方向こうの繁木がすっかり火の鎌で一掃されるように爽快に、残る罪は無いと、祓い、清めます。






 

 田舎にも、都会にも、すべて爽快にするには、水が勢いよく落ちる始めの川の瀬にいらっしゃる岩手県早池峰山の神瀬織津比賣(せおりつひめ)に皆の思いを聞いてもらい、瀬織津比賣はこれを大海原に持って行ってくれます。それから、速開都比賣(あきつひめ)が細かくその陳情の数々を読解し、その次に伊勢白山道の氣吹戸主(いぶきどのぬし)が速佐須良比賣(さすらひめ)にこのことごとを届けます。



 

 スサノオノミコトの恋人、若くして皇統位の争いのために亡くなったカエヤ速佐須良比賣はこのように人々が、貧富へだたりなく睦みあうならば喜び、国に魂を戻してくれて世の罪という罪がないようにしてくれます。



 

 このことを外国人、国民、先祖代々の寺社仏閣あらゆる所に宣言しなさい。  「富みを分け与えよ。苦しむ人は楽になり、富む人は少し衰える、しかし社会は安定し、罪が行われない。」  天津神(移住の人々) 國津神(原住民) 八百萬神(生きとし生ける全ての人々)等共に 聞かせて回れば必ず善いとあなたに真心を持って進言します。