こらから死ぬまでどう生きるのか。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 時代の流れは、多国籍化になるだろうが、日本で生まれ、日本の企業で育った人は、なかなか欧米流のおちゃらか文化には、どこか違和感を覚えるはずである。ネット民として、コメント欄に多くの人が書き込みを入れる。では、その人たちが、40代、50代となって、人生の終盤を迎えた時、今と同じスタンスでいきられるかというと、たぶん、厳しいはずである。匿名性だから言えることも、組織の中で、正論を言える人は10%もいないはずである。

 

 

 日本人からみると、欧米人が主催するパーティや企業の記念行事は、ある意味、打算的な要素を隠蔽した茶番劇であることが多い。もちろん、欧米人は、それを理解しているのだから、それを楽しむということが前提である。たぬきときつねの馬鹿試合の中で、何が自分にとって利があるのか、利がなければ、適当な距離を置いて、提供してくれるお酒やスナックをいただき、適当な時間がきたら、愛想笑いをして帰る。それがエチケット。日本人はそれができない。かならず、偏る。売国奴のような振る舞いで、下手な英語を駆使して、太鼓持ちするか、それとも、日本人通しで、集団化して、日本語で愚痴をいいあう。

 

 

 私は、もともと、若い時に、病気をして、人生の既存ルートを外れた。たまたま、時代がよかったから、大阪の中小企業に拾われて、そこで技術を実践的に習得した。経験から知識を身に着けた。もう、37年以上、分散に携わっている。でてくる装置というものが、いつでも眉唾ものだし、そこに、明確なロジックはないし、この分野には教科書がないから、常に、自分が最先端の分野で、トライエンドエアーして、結果を導いていた。この分野、どんな屁理屈を言おうが、結果がでて、しかも、スケールアップでも再現がでれば、それが正論になる。

 

 

 世の中は、いつの世でも前例などない。誰かが前例をつくって、それが飽和して、その前例が支配する世界が終了する。それが一つのサイ

クルである。人間には、二つのタイプの人間がある。ひとつは、その前例の中で生きようとする人、つまり、与えられたことをすればいいから、楽である。やることがあることで生きられる人である。もうひとつは、それに耐えられず、新しいことを創造しようとする人である。しかし、道なき道を進む、前例なき道を進むのであるから、不安である。うまくいくとは限らない。

 

 

 前者の人で成功する人は、それを楽しむことができる人である。それでいいと、それをうけとめ、与えられた仕事をこなす人である。そういう人は、自然とそれなりの地位につくことになる。前例のロジックの中で、効率よく生きることができる人になる。それでいいと、わりきれば、他人に対しての否定もない。幸せな家族を得て、それなりの人生をいきることだと思う。後者の中で、失敗する人は、心のどこかに、俺は、お前らと違うと、自分のエゴを絶対視している人が多い。もちろん、それに対して、結果を残していればいいし、それも、それが、機能しているうちはいいが、しかし、どこかで限界がくる。死ぬまで、何かを作り続けることなどできないからである。それがとぎれたら、どこかで、見捨てられる時がくる。組織で和を乱したら、アウトだからである。どんなに優秀でも、日本では組織の中の一匹オオカミは存在しえない。組織からでても、一匹オオカミとして吠え続け生きられるなら、その人の持っているものは、本物である。

 

 

 プライドをもつのもいいし、自分という我をもつのもいい。しかし、それによって、方向性が限定されることに普通の人は気が付かない。360度、見なければならないのに、自分の視野が前方60度内だけで、それがすべての世界だと信じていれば、後ろから追随してくる敵の存在など分からない。自分は安泰だと過信していると、後ろからミサイルが飛んできて、アウトということになる。

 

 

 世の中は常に確率で動いている。過去は一つ、現在もひとつ、しかし、未来は無限である。仮に、一か月後の世界にいる自分と今の自分とが、まったく異質な状況にいれば、それがまったく想像できないものならば、その人の未来は無限に近い状態だったということになる。予測もできない偶然が重なったということである。いつも買ったことのない宝くじを、なにげなく3枚かった。それが6億円になった。ということもあろう。そして、たまたま道を歩いていたら、上から看板が落ちてきて、即死したということもあるだろう。もし、そういう結果がでたら、すべてがその時ひとつになったというだけで、当たるまえの数秒前、その人の運命は確率の中にあったということである。

 

 

 だから、こうあるべきだ、こうしなければという自分の主観をもつと、そこに自由はなく、それが、ひとつの前例となってしまう。それがあたっていればいいが、大抵は外れの場合がおおい。だから、失敗する。成功する人は、ある意味、考えない。神様の言う通りという感じで、ある日、突然、このようにしろと、神の啓示が襲い、道なき道が開かれることになる。うまくいく人とはそういった人たちである。もちろん、そうなる状況には、知識、経験、感性が、ある一定の値を超えていなければならない。

 

 

 人生、終盤になると、だれでもが、自分の人生の終わりを感じる。そこで、初めて、開き直ることができる。もし、自分というもので、自分が培ってきたものを押し殺してきた人がいれば、そこで、その重しが取れることになる。そのことで、大器晩成型の能力が発揮される。今の社会で、大器晩成型の能力がでてくるまで、その人が苦難の状況の中でい続けることができるかどうかが問題である。フリーター、バイト、そういう時代をへて、大きなアーチストになる人がいる。そういう人のまわりには、かならず、そういう人を助けてくれる人がいる。その大きな才能がいつか開花することを信じて、支えてくれる人、昔で言えば、パトロンがいるはずである。そういう人がいれば、その人は幸せである。

 

 

 だれでもが、他力本願の組織から、出ていかざるをえない時がくる。それが定年である。私はある意味、個人経営者だから、食い扶持を探さなければならない。だから、退職金をもらって、組織から出て、そこから、何かをやることが、どれだけ至難の技か知っている。なぜか、普通の人は、金を稼ぐ方法論、その経験がないからである。組織で生きてきた人と、個人で組織をつくり、そこでお金を得てきた人との差があるからである。そして、定年後、生きられても、10年はない。実質的に何もできないことに等しい。だから、どこかの顧問になり、70歳まで生きて、その後は、なるようになるというのが正論だと感じる。

 

 

 私は、好き好んでこの道を歩んできたわけではない。もし、病気をしなかったら、あの時の友人とともに、青春を生き、就職して、どこかの企業に就職していただろう、たぶん定年だろうから、どこかの顧問となり、生きていただろう。今の自分とは全く異質な状態にいると想像する。人生、一回とすれば、どちらがいいのか、わからない。しかし、今がすべてだから、この状況が自分にとっての必然ということになる。あとは、これから、あの世へ行くまでの間、どう生きるかにかかっている。結局、人生とは、終わってしまったことには意味がない。それをベース(経験)にして、未来をどう生きるかにかかっている。

 

 

 何事も、死んだらおしまい。それはそれでしょうがない。自分が生まれる前のことはしらない。だから、死んだ後のこともわからない。それでいい。私は神様を信じている。しかし、そこに特定はない。私は、キリスト教、神道、日蓮宗、浄土真宗、その他の信仰、すべて、否定はしない。その人がそれをいいとおもって、そのことでこの世を生きていけるなら、それをどうのこうの言える立場ではない。それぞれがそれぞれ、すばらしいという。目を輝かしていう。どれも真実なのだろうと思う。結局は、神(仏)とともに、という点では同じなのである。後、何年、生きられるのだろうか。自分の命が有限だということは、すでに受け入れている。