金閣寺の美しさ、金箔の鳳凰は何をみているのか? | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 昔、昔、三島由紀夫氏が書いた金閣寺を読んだことを思い出した。金閣寺の光に映える金箔の美しさと、彼の文体とが、重なった。子供の時、新聞の一面に、彼が割腹自殺した写真、記憶では、首が片隅に落ちている写真が載っていたような気がしている。今の時代、彼がどんな思想をもち、全学連の学生と対峙し、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、白い軍服をまとい、クーデターを誘発したか、その後、割腹自殺をし、45歳の若さで、この世をさったのか、理解することは、難しい。もし、今も生きていたら、95歳になっている。

 

 

 三島と検索すれば、今は、数日前におこった、殺人事件がでてくる。20歳の学生が、19歳の同じ大学に通う女子学生を殺害した。報道によれば、馬乗りになって、腹と首を刺したということ、出血死ということだ。むごいことをする。どんな事情かは、知らないが、逃げる女性を追いかけて、殺害したのだから、加害者の心の中に、相手を全否定しなければならない情欲が出ていたのだろう。確かに、そんなことはどうでもいい。大事なのは、被害者はもう、もどってこないという事実。被害者をここまで育てた両親の心痛はいかほどか、それとともに、加害者をここまで育てた加害者の両親は、どんな思いだろうか、起きたことは、どうすることもできない。それは、横田めぐみさんが拉致されたことと同じだ。めぐみさんが北朝鮮で、拘束をとかれ、自分が置かれた境遇を自覚したとき、どんな思いをしただろうか、月も太陽も東から登る。それを見た時、かぐや姫ではないが、故郷にいる両親をどれほど、慕ったか。それも、今までの歴史からみれば、一つの出来事。風化させてはいけないが、いずれ、時間とともに忘れ去られる。100年、200年、1000年も、過ぎれば、どんなことも、希釈される。真水に落ちた微小な汚れた粒子も、時間とともに、拡散され、希釈される。

 

 

 やはり、生きれるなら、生きた方がいい。三島由紀夫氏も、何か主張すべきものがあったら、生命が維持できなくなるまで、生き抜いて、それを言い続けるべきだった。いずれ、人は、だれでも死ぬ。なにも、死に急ぐ必要もない。世の中には、生きたくても、生きれない人がいる。病気で亡くなる人もいるし、災害や事故、事件に巻き込まれて、死ぬこともある。自分がいつまで生きられるかなど、誰にも予測はできない。70歳までいきたのなら、それが結果、80歳までいきたのなら、それが結果。最後は、だれでも、死という運命を受け入れなければならない。だから、殺生は、自他ともによくない。しかし、人は、動物や植物、生命のあるものを食する。食するのなら、その分、生きて、利他に尽くすことにある。宮沢賢治氏が描く少年や動物の心象風景と重なることである。

 

 

 金閣寺の頂上にある金箔の鳳凰、その視線の先にあるものは、極楽浄土、阿弥陀如来に抱かれた世界である。それが、当時の人が夢見た、命の続きである。金閣寺の美しさは格別である。世界遺産、そこに、宗教はない。光に映える金箔の鳳凰、それだけで十分である。見るものをただ、魅了する。説法も儀式も経も不要である。鳳凰の先にあるもの、それが命の続きである。それを思い、100年、300年、1000年先を見続けて生きることである。現実的には、この世はどこかで終わる。しかし、魂は遷移していくはずである。そう思って、生きていったほうがいい。みんなそうして、生きぬいた。そうして死んでいった。金箔の鳳凰は、今は、何をみているのだろうか?