爺が、若者に言えることは。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 だれでもが、その日、その日を、無為に過ごしているように見えても、それなりに生きている。一日、一日が、それなりに充実しているように見えても、過ぎてしまえば、すべてが過去形となり、知らぬ間に、日々の想いは記憶の中にうずもれていく。

 

 

 人生、最後までどうなるか、分からないが、しかしながら、私が生きられる時間は、多くて、30年もない。20年も生きられたら十分かもしれない。私にも青春があった。当時、今の自分の姿など予見などできなかった。もし、今の私のような人が、私の青春時代にいたなら、私が、その人の言葉を信じれれるぐらいに、傾倒できたなら、私の人生は違っていたかもしれない。

 

 

 この歳になって、私が言えることは、自分の人生を縛るものは、結局、自分以外にはないということになる。人生は、一度きりしかない。今の日本でうまれたらなら、何とか、85歳ぐらいまでは、生きていられたらいいと思う。その最終局面まで、生きられたらいいはずである。85年間の再現性のない、一度きりの自分だけの人生、誰のものでもない、自分だけの人生、それを決めるのは、自分ということになる。私は、神様を信じている。何かの因縁で生かされていると感じている。神様が、自分の人生を決めているのではない。神様に働きかければ、世の中の何かと作用して、結果が出てくる。何も働きかけなければ、結果はでてこない。作用させなければ、神様との相互作用は起きない。

 

 

 重要なのは、85年間、生き続けるということである。それが、人生の最大の制約条件である。事故や事件、災害に巻き込まれて、途中で、ぽっくりと行く人もいる。病気で亡くなる人もいるし、自ら命を絶つ人もいる。死んだ時点で、その人の生は終わる。10歳でなく人も、20歳で亡くなる人も、40歳、50歳で亡くなる人も、それで、エンドになる。それが現実なら、それはどうにもならない。死後の世界があったとしても、そことの相互作用が、現実として見えない以上、どうにもならない。

 

 

 若者には未来がある。しかし、現実の世界は、不条理に満ちている。差別と格差が存在している。私は神様を信じているが、神様に頼んでも、差別と格差は解消しない。豊かな家庭に生まれ、エリート階級の中で、生きていられる人もいるし、貧困の中に生まれ、まともな教育を受けられない人もいる。何も働きかけなければ、その格差はそのままである。非正規で、社会政策の恩恵を受けられずに、孤独の中で、生き続けなければならない人もいる。何も働きかけなければ、それで終わってしまう。人生は残酷である。社会も残酷である。冷淡で残忍である。神様に祈っても、神様は沈黙をする。自分で動かなければ、何も変わらない。祈っても、扉は開かない。扉を開ける動作をしなければ、扉は開かない。世の中は残忍で残酷なのである。

 

 

 豊かな人は、世の中に働きかけなくても、それなりの人生を歩むことができる。しかし、若い時から、何かしらの差別と格差を背負いこまざるを得ない人は、より頑張って、この世に働きかけなければ、その状態で終わってしまう。まったくの不条理である。しかし、不条理といっても、何も変わらない。それが人生なのである。その差別と格差を変えるのは、自分しかいないのである。世の中、2割の人はいい思いで生きている。8割の人は、その2割を楽させるために、生きているようなものである。経済も同じである。2割のエリートが生きられるように8割の人が生きている。不条理である。しかし、そういっても、だれでもが歳をとる。文句をいっても生きなければならない。その不条理が嫌で、自ら命をなくす人もいる。そうして、だれもが、時間がくれば、死を迎える。では、どうすればいいのか、がんばるしかないのである。

 

 

 あっという間に、時間が過ぎる。20歳、30歳、40歳、50歳を定点観測すれば、世の中の人は、ところてんのように、出口へと押し出されていく。ある意味、47歳までは、昇りのエスカレーターに乗っているようなもの、そして、47歳前後で、エスカレーターの動きが止まり、それ以降は、エスカレーターの向きが逆になる。下に戻れば、そこが奈落である。だから、常に、上に向かって、歩き続けなければならない。歩をとめれば、奈落へと運ばれてしまう。50歳をすぎれば、いつ、ぽっくりいってもおかしくはない。それでも、85歳までは、35年ある。50歳で、見える人生の風景とは、平均余命35年という幻想でしかない。

 

 

 20歳の人も、明日、ぽっくり行く可能性がある。もちろん、後、65年生きることも、75年生きる可能性も残されている。どういう風な人生を歩むかは、人それぞれである。人生は不条理、それはどうすることもできない。だから、一度しかない人生、85年間、生き延びるためには、どうしたらいいか、考えるべきである。

 

 

 子供の時、何か欲しいものがあった時、駄々をこねる。それは親がいるから、駄々をこねられる。もし、親がいない孤児だったら、駄々をこねても、ほっておかれる。人生はそれと同じである。人は一人では生きていけない。常に、他人とのかかわりの中で生きている。大人になることは、多くの人と関わりを持つことになる。学生が社会人になれば、ろくでもない人と出会う可能性も増える。ろくでもない上司にであうこともある。自分勝手で、他人を否定することで、自己肯定して、生きている人もいる。そんな不条理は当たり前なのである。不条理を恐れて、引きこもっていたら、人生を台無しにする。世の中は、くだらない人もいるが、それと同じくらいに素晴らしい人もいる。最初に出会う人が素晴らしい人ならいいが、人生、そんなに甘くはない。くだらない人の次もさらにくだらない人かもしれない。その次もさらにくだらないかもしれない。しかし、どこかで、素晴らしい人と出会う可能性もある。こちらが、真実一路で生きていれば、どこかで、それが報いられる日が来るかもしれない。もちろん、それが来る前に、ぽっくりと行くこともあり得る。そうなれば、それは仕方がない。その時は、来世が素晴らしいと思うしかない。もし、私が若い時に、そのようなことをいってくれる人と出会えていたなら、私の人生も変わっていたかもしれない。

 

 

 昔は人身売買があった。今でも、それに類する世界はある。弱肉強食である。札束で性を支配する変態おやじも存在する。それでも、生きていかなければならないのかと誰でも思う。明日も見えないぐらいにどん底の生活に叩きのめされることもあるだろう、それでも、生きていた方がいい。どのみち、最後はぽっくり行くのである。自分の人生が最後、どうなるのか、その結末をみて、これが私の人生だったのかと、おもって、幕を閉じた方がいい。