或る清貧画家の苦悩の断簡 (日々のつぶやき まとめ)補遺 | 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画・絵本便り

後藤 仁(GOTO JIN)の日本画・絵本便り

後藤仁ブログ2~絵師(日本画家・絵本画家、天井画・金唐革紙)後藤仁の日本画・絵本・展覧会便り。東京藝大日本画卒,後藤純男門下。「アジア/日本の美人画」をテーマに描く。東京藝大,東京造形大講師。金唐革紙製作技術保持。日本美術家連盟,絵本学会,日中文化交流協会会員。

 これは画家の屁理屈であり、あくまで私の個人的な解釈でしかないのだが、人には言論の自由・思想の自由があるので、色々と思う所を言っておこう。 

 

 人は誰でも生まれながらにして平等であり、貧富・行いの善悪の個人差こそあれ、人権上は貴賤・上下の階級差は一切ないと、一般論でも私もそう考えている。それが前提である。~~ 

 ただそれが「芸術・美術」になると、完全にそうとも言えないのである。スポーツ記録の上下があるのと同じである。私は中学時代には足が速く、校内マラソン大会にて、男子、約600名余りの内、1年生では学年1位(全学年総合3位)、2年生では総合1位になった。(3年生の時は運動不足で途中で競争をあきらめ惨敗だったが・・・。)しかし、市や府の陸上競技大会に出ると、私よりはるかに早い人が沢山いて、私はこの世界では全く歯が立たないと悟った。上には上がいくらでもいて、どうあがいても私の実力では太刀打ちできないのだ。 

 「芸術・美術」もしかり。その世界は決して平等ではない。ただスポーツには客観的な記録がある。美術には完全な物差しはなく、そこには技術面以外に”思想・思考”や”個性”という、さらに重要な価値観が加わってくるので、その良し悪しの判断は、相当に難しい。ただ、それでも何かしらの良し悪し、上下の差があるのは確かだ。 

 美術大学は比較的簡単である。日本画の場合はデッサン・着彩の技術力・描写力がその時点で高ければ受かる。芸術的に優れているか否かは、その時点では判断しようがない。それ故、そのレベルには明確な上下があり、一般的に客観的に競争率でランク分けされ、東京藝術大学は S だの、多摩美術大学・武蔵野美術大学は A⁺ だの、京都市立芸術大学は A だのと規定されている。しかし、そうであるからと言って、それが将来、作家(芸術家)としての上下であるとは全く言えない。ただ、大学受験での技術的な差でしかないし、その試験内容への向き不向きもある。 

 私などは元来変人でもあるから、学生時代には進学への志向・価値観は全くなく、中学卒業後、すぐに画家か美術系職人になりたいと考えていた。ところが大阪市立工芸高等学校という美術高校がある事を知って、ここなら絵が描けるかなと思い、それだけで進学した。その後、大学など本来どうでもよかったが、東京藝術大学の卒業生には私が憧れる画家が沢山いるので興味を持ち、ここなら行ってみたいと、東京藝術大学一本で2浪して入学した。他の美大には全く興味がなかった・・・というか、大学という肩書には価値観がなかったのだ。ただ、よりレベルの高い環境で、絵を描きたかっただけである。しかし、いざ入ってみると、私が理想に描いたような絵を真剣に切磋琢磨する雰囲気も弱く、将来の上手い出世の仕方ばかりを模索する周囲の現状に失望して、藝大を2年間離れたのだ・・・・。 

 

 絵の判断は実に難しい。しかし、漠然としたレベルの上下は必ずある。そうでないと、例えば、ミケランジェロや伊藤若冲のように、後世の人々までもうならせる絵を、容易に描けるとは到底思えない。簡単にあきらめる訳ではないが、私がどんなにあがいても、ミケランジェロや伊藤若冲にはなれない。現時点では芸術的レベルが格段に違うのだ。その事実を現代画家も受け入れて、謙虚に学びつつ、描き続けるしかない。 

 現時点において絵の価格が高いから(絵本ならよく売れているから)、芸術的に優れているとも言えない。画商やコレクターや美術評論家などの思惑で、時代の流行・作家の社会的肩書などをふまえながら、価格は人為的に付けられているに過ぎない。時代と共にその価値観も大きく変動する。現時点で商売ベースに上手く乗りやすい作品が、高く取引されているに過ぎないのだ。 

 美術団体展・公募展で賞を取ったから役員になったから、優れている作品であるとも一概には言えない。美術団体にはそれぞれの作品傾向があり、その審査員の好みや思考に合致しないと、評価されない。その一時代の審査員の感性が芸術・美術の完全形ではなく、多様な価値観の芸術品を一律に評価できる完全な物差しはない。例えば院展の場合、藝大を学部で卒業してもほとんど先生には付けなく、大学院を出て初めて先生に弟子入りが許され、院展での出世階段が登れるようになる。大学時代に既に将来のコースがほぼ決まってしまうのであるが、本当は、それが芸術的に完全に優れているという訳でもない。その形式化した出世構図により、師や先輩を模倣した個性のない作風が30年以上も変わらず続いているという弊害が現在大きく表面化している。 

 つまり団体展に言える特徴は、まずは大作に向く作風、一目で気を引く強めの作風、全面的に間を空けずに描きこまれた作風、そして何を言っても審査員に気に入られやすい作風でないと受からないという事になる。(作品で判断しているのならまだ良いが、ほとんど人脈だけで合否が決っていく団体も多いだろう。)そんな訳で、私のような物語絵風で比較的繊細な作風、独特で個性的な感性の作風は、現在では評価されにくい。私は元々、現在の美術団体展には不向きであり、期待もしていないのだ。 

 

 芸術・美術の評価とは、このようにして誠に難しい。ただ、趣味の範囲で描く分には、一切、上下も良し悪しもなく、好きで描くのが一番良いと常々私は言ってきている。しかし、プロというか、人生を芸術に捧げた者に関しては、必ずそこには良し悪し、上下があり、世間の評価もつきまとう。 

 ただ一つはっきり言える事は、本当の良い作品は、必ず人に何かしらの大きな”感動”を与えるのではないかと思う。他者の心を揺さぶり、動かすのだ。それがなければいくら技術的に上手かろうが、評価されようが、肩書が凄かろうが、本質的に良い作品とは言えない。プロ画家には、そこそこ上手くても、感動がない絵が結構多い。いわゆる上手下手(ウマヘタ)である。逆に、純粋美術にも絵本美術にも、下手上手(ヘタウマ)っぽい絵も案外多いが、その中で本当に優れた作品は、実際はごく少ない。一番優れているのは、上手上手(ウマウマ)であるが、それは例えば、先程言ったようなミケランジェロや伊藤若冲など、歴史的なごく一部の作家にしか当てはまらない、極めて高いレベルの作品を指す。 

 つまり作家は、現世においての人の評価など、気にしても仕方がないという事なのだ~。それにより画家人生が大きく左右されるが、それもまた時の運。画家人生を一生かけて、誠心誠意、切磋琢磨して描き続ける事しか私にはできない。それが現世、評価されようがされまいが、死後、評価されようがされまいが、一絵描きにはあずかり知らぬ事。ただ、今、心を込めて描く事に集中できれば、それで良いのだろう・・・・。

 

 絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁