日本画から絵本へ、そして日本画(絵師)へ 後藤 仁 | 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画・絵本便り

後藤 仁(GOTO JIN)の日本画・絵本便り

後藤仁ブログ2~絵師(日本画家・絵本画家、天井画・金唐革紙)後藤仁の日本画・絵本・展覧会便り。東京藝大日本画卒,後藤純男門下。「アジア/日本の美人画」をテーマに描く。東京藝大,東京造形大講師。金唐革紙製作技術保持。日本美術家連盟,絵本学会,日中文化交流協会会員。

 私は物心がついた頃には、絵を描くのが好きでした。小学校~高校の頃には、運動の好きな わんぱく少年の反面、いつでも、鉛筆や水彩やアクリルで空想画を描いている、絵画少年でした。私が「日本画」に出会ったのは、15歳・美術高校(大阪市立工芸高等学校 美術科)1年生の時です。高校2年生からは日本画を専攻しました。大和絵・唐絵から続く1000年を超える日本画の歴史の素晴らしさと、日本画の画材の面白さ・多様性・多彩性に魅了されたからです。近親者には、日本画を描く者や深く知る者はいなかったので、日本画壇の現状を知る由もなかったのです。 

 高校卒業後、単身上京し、美術予備校(立川美術学院 日本画科/村上 隆さんらにデッサン・着彩を教わる)に進みました。本来、私は、大学進学など全く関心がなかったのです(中学か高校卒業後、すぐに画家か美術系職人になりたいと考えていました)。ところが、東京藝術大学の卒業生には、私の憧れる日本画家が沢山いましたので、ここなら行く価値くらいはあるだろうと思ったのです。横山大観・菱田春草~東山魁夷・平山郁夫まで、そうそうたる日本画家達です。当時、NHK「シルクロード」等の影響もあり、中国伝統文化への傾倒を高めていたので、藝大の平山郁夫先生の教室でシルクロード美術を研究してみたいという、純粋な思いがありました。 

 しかし実際に、東京藝術大学 美術学部絵画科 日本画専攻に入学してみると、期待していた雰囲気とは異なっていました。無類に絵の好きな者達が、日夜、画道のみに邁進する光景を予想していたのです。実際には、朝早くから絵を描いている人はほんの僅かで、あまり学校に来ない人もいて、「絵なんて子供の頃は好きではなかった・・・。」「芸祭が終わると、絵を描くだけでつまらない・・・。」などという話ばかりが聞こえ、「大学院に行くにはどうすればよいか、どの先生に付けば得策か、どうしたら将来、出世できるか・・・」などという噂話でもちきりでした。  

 藝大日本画専攻のそのような低レベルな雰囲気に幻滅した私は、学校を辞めたいと思い、しかし新聞奨学生をしながら苦労して入学した藝大ですので踏ん切りも付かず、2年余り学校に行かずに自己研究をしながら日本国内を放浪していました。そんな青春期も過ぎゆき、常に勤労学生の貧乏書生でしたが、親からの仕送りもいただいていた私は、親不孝も甚だしいという事で、やむなく藝大に戻りました。そこで3年生から後藤純男先生の担任になり、後藤先生の”絵”に対する真摯で純粋な姿勢に感銘し、藝大の残り2年間を何とか在籍できました。その他の先生・先輩・同級生からは、残念ながら、本当に”絵”が好きだという情念はあまり感じ取れず、絵によって偉くなるとか、お金持ちになる事の重要性ばかりが目に付きました。 

 あの時、後藤純男先生にお会いしていなかったら、心底、日本画壇が嫌になっていたでしょうね・・・。2年留年という汚名を着せられましたが、何とか学部卒業だけはしました。藝大生はいくら頑張っても良い絵を描いても、留年している人は大学院には行けません。平山郁夫先生の教室、又は、後藤純男先生の教室で学ぶという夢は潰えました。その学生時代のたった2年間の弊害で、私は未だに日本画界では、20年以上も出世からの遅れを取っています(私は名目的出世を良しとしません、野の草のように踏まれて踏まれて、厳しき画道を行く方が、画家にとって良いと思っているので、これでいいのです)。

 

「後藤純男先生 東京藝大退官記念展」(東京藝術大学資料館) 1996年10月7日 日本画家・後藤純男先生と

 

 しかしながら、その後も、日本画壇への漠然とした不信感は続き、特に日本画三大団体(院展・日展・創画会)の近年の強固な権威性・保守性・閉鎖性・低質化・没個性化には辟易しており、私は院展同人理事の後藤純男先生門下ながら、大学卒業後には日本画団体とは一定の距離を置いてきました。

 バブル経済崩壊後、日本画壇も低迷が続き、昔ほどの輝きを失い、日展~創画会~院展の順で、著しく勢いが陰ってきました。生来の芸術家肌の作家が徐々に減り、各団体は派閥を大きくするために、アマチュア画家から引っ張ってくる傾向が強まり、総素人化の様相を呈しています。日展はバブル経済崩壊前から、いち早く、絵画的実力・中央での人気が廃れましたが、未だに日本の地方では一番高等だと信じられていますね・・・、フフフッ。いずれの団体も、本当に優れた画家がどんどん減り、権力・富ばかりを欲する似非画家が増えました。逆に無所属日本画家の中には、少ないながらも、優れた画家が微増傾向にあります。今は、「どこの団体に所属しているか」という時代ではなく、個々の作家の”ブランド力(作家の名前と作品自体)”が重要なのです。 

 各団体は、そのような苦境にありながらも、それを見て見ぬふりをし、または気が付きもせず、改善する努力を怠り、師匠・先輩の絵を模倣し続け、そのような悪環境下で、過去の下田義寛先生の盗作事件や今回の宮廻正明先生の盗作事件という、あってはならない嘆かわしき事件まで起こす始末です・・・・。 

 

 一部の財テク的絵画コレクターの為に売り絵を描かざるを得ない「日本画」のあり方にも、最初から疑問を持っていましたが、近年、更に、そのような日本画界の停滞ぶりをまざまざと見せつけられ、ますます疑問は増しました。また、私自身は比較的小品の「物語絵・絵巻物」に関心があれど、超大作・非情緒性を良しとする現代日本画壇では発表の機会・場所もなく、煮え切らない心持ちでいました。 

 そんな折、2004年と2007年の「個展」の時、日本を代表する絵本出版社・福音館書店の編集者から声をかけていただきました。「絵本に関心はありますか? 描いてみる気はありませんか?」と。私は幼少期には絵本を好んで読みふけり、絵画への興味の萌芽を抱いた事を思い出しました。私は「絵本」という印刷媒体(出版美術)の是非よりも、「物語絵」を描きたいという一点において、大きな興味を持ちました。「ぐりとぐら」「モチモチの木」「おおきなかぶ」「王さまと九人のきょうだい」「ひさの星」等の古い名作絵本はよく知っていましたが、当初は、現代絵本界の知識はほぼありませんでした。そこで、日本画で丹念に描いた初絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)と、初ハードカバー絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)を出版したのを機に、絵本界をより知るために、2014年に、絵本作家・イラストレーターの集まり日本児童出版美術家連盟(童美連)に入会し(推薦者:黒井 健、浜田桂子)、絵本出版社・編集者 等との交流も始まりました。

 

絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店/後藤 仁 絵、君島久子 文)

 

 人柄の良い絵本作家にも複数、出会えましたが、しばらくして絵本界をよく知るにつれ、現代絵本作家界においても日本画界同様、作家の質の低下が起こっている事に気が付きました。文章はともかく、私の本業の”絵”に関しては、納得いく作画レベルの絵本はほんの僅かでした。かつての、いわさきちひろ や 赤羽末吉、太田大八、佐藤忠良(本業は彫刻家)等のような優れた絵本画家が輩出された黄金時代は、既に終わっていたのです。今の絵本界は一見、テレビ等でも多く取り上げられ隆盛の様相に見えますが、その実は、軽薄なマンガ風イラストやヘタウマ(実はヘタ)絵本ばかりが増え、本当に芸術的画力のある作家が実に少ないのです。絵のアマチュアや芸能人 等もどんどん参入してくるので、日本画界同様、絵本界は総素人化しているのです。 

 絵本作家界は他人の絵の事をとやかく言わない原則があるようですが、私は本来、純粋美術の人間なので必要とあらば明言するのですが、実際にお会いした絵本作家の中では、いわむらかずお さん がデッサン力・絵本的思想において特に優れていると感じました。また、浜田桂子さんや和歌山静子さん、小泉ルミ子さん、長野ヒデ子さんのような、絵の是非はともかく、メッセージ性の強い優れた絵本を描かれる作家もおられます。田畑精一さんや篠崎三朗さん、黒井 健さん、池田あきこ さん、藤本四郎さん、黒川みつひろ さん、あんびるやすこ さん 等にも大変お世話になりましたが、いずれも、ある種の高い職業的実力をお持ちの世代です。 

 童美連には6年間在籍し、理事・展覧会実行委員会委員長・日本著作者団体協議会担当を経験しました。幾つかの学ぶべき点もありましたが、展覧会実行委員会委員長の職は多忙過ぎ、画道との両立は時間的・精神的にも厳しかったのです。また、絵の実力・絵本の実績もほとんどない人が何故か威張っていたりして、諸々面倒くさくなり、理事任期の途中で無理やり退会しました。最初から分かっていた事なのですが、やはり私は、団体・集団での活動には向いていないのです。

 

「第35回子どもの本と文化の夏の集い」 2017年8月19日 絵本作家・いわむらかずお さん と

 

個展「後藤 仁 日本画・絵本原画展」(画廊宮坂) 2018年8月20~25日 日本画家・中島千波先生と

 

 この間、「日本画」から「絵本」の業界に大きく足を踏み入れ、そのウエイトが増していたのですが、やはり本業の「日本画」~純粋美術を大切にしなければという思いが募りました。絵本は「絵の本」なので、絵が最大級重要だと私は考えていましたが、業界では文と絵のバランスを重視する傾向が強く、どちらかと言うと、絵よりも文が高尚だという思考もあるようですね・・・。私は生来の画家~絵描きです。ただひたすらに、絵を描きたいのです。私は国語はかなり得意だったので、必要ならば絵本の文も書けますが、基本的には絵を十分に描ければ満足なのです。 

 現代日本を代表する日本画家・中島千波先生にお会いし、推薦をいただけたので、2018年に日本美術家連盟(美連)に入会しました。絵本作画と並行しながらも、日本画家としての立場を中心軸に、絵を探究したいと思ったのです。そこでここ数年、やる気のありそうな日展系の日本画家達とグループ展・講演会等を開催したりもしました。面白いには面白くもありました。しかし、やはり画家はイラストレーターよりも更に我が強いもので、自分が一番目立ちたい、自分が一番偉い、という姿勢が全面に出るのです。また現在の日展の迷走・低調ぶりが現われたのか、日展準会員ともあろう者が、純粋な画道から逸れた雑多なイベント企画ばかりを立ち上げたり、素人の画商まがいの人を連れてきたりするので、私はだんだん呆れてきました。これでは画家~日本画家ではなく、ただの目立ちたがりのパフォーマー・イベンターです~。これも違うなと諦観した私は、やはり当面、一人で歩むしかないと覚悟しました。 

 仏陀もこうおっしゃられました、「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。」(「ブッダの真理のことば」中村 元 訳/岩波文庫) 

 厳しき画道を進むには、本当に同行するに相応しく、息の合った、優れた画家が現われない限りは、一人で求めるしかないのです。私もかなりの偏屈・変人ですので、私に合わせられるような奇特な画家の登場は理想でしかなく、実際にいるとは思えません・・・。 

 ちなみに、「日本画家」という名称は、明治時代初期に作られた新名称であり、私にはどこか違和感を覚えるので、日本画壇への拘泥もない私は、日本における画家の古称である「絵師」という肩書きを10年位前に使用していたのを、最近再び、使い出したのです。職人性・芸術性の両方を合わせ持つ絵描きでありたいという意味を込めています。

 絵の発表形態としては、展覧会や出版物 等、時代と必然性に応じて、様々な表現手法を駆使する事でしょう。残りの作家人生、どの立ち位置にいようとも、日本画の画材を純粋に用いながら、一枚絵や、絵本等の物語絵を、全身全霊で描きつくし、美の求道を生きられたら幸いです。 

 

  絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁