【コロナの時間】コロナ禍の前とそのなかで僕の考えたこと。

新型コロナウィルスによって「変わる」と言われるけれど

日常が「平常」化すればそれで良い?

「コロナウィルス」とはなんだったのか、「ステイホーム」とはどういう意味を持っていたのか。
個人的には「コロナ禍」とその周辺に存在する意味を十分に咀嚼できないまま、緊急事態宣言が解除されました。
考えるたいことが多すぎる一方で、考えるのには早すぎる事象もあり、そうこうしている間に「平常」化していく日々。
僕らには重すぎる問いかけを突き付けられていたはずなのに、体の良い、耳障りの良い結論で終わらせてしまうのは僕には違和感しかありません。
とくにコロナの影響で「変わる」と言われていたもののなかには、本来、変えなければならないものがあったはず
それなのに結局「変わらなかったね」「変わる必要性もなかったね」で終わらせてしまうのはとても残念なこと。
知らない間に自分の周囲が、いや、世界が「変わって」いく…。
そんな狭間に取り残されしまう恐怖感をきっと、読者の方もお持ちでしょう。

人生で今だけの「コロナの時間」

とある日のこと。
某動画投稿サイトで、休校中(であろう)の男子高校生がふと、こう言ったのです。
「僕はコロナの時間にやりたいことがあるんだ」
僕ら大人(と呼ばれているただの成人)は「コロナウィルス」の蔓延を逃すために、日常を非日常に置き換えて、それでも非日常という「平常」を日常のように食い込ませようと必死でした。
けれども休校となった高校生たちは、高校生というその日その時にしかない時間をコロナ・ショックで奪われようとしています。
毎日がある意味、高校生という非日常だったのを、いかに大切な非日常として過ごすのか
だからこそ、高校生から発せられた「コロナの時間」という言葉に僕は強い衝撃を覚えたのです。
僕らはそんな貴重な「コロナの時間」をどう過ごしていたのだろうか。
ともすれば「都市部で感染者が多いんだから田舎は関係ねえんだんべ」なんてひとも少なくないと思うのです。
何事もなく過ごせることに越したことはありませんが、スルーしてしまうのも違うと思うのです。
スルーすればするほど、コロナの傷を負った地域とそうでない地域とで意識の差や、ハード面での乖離が発生すると考えています。
気づけば、コロナの影響で「進化」した集団や個人とは違う、時代遅れの生活を営まなければならなくなることも…。
だから、少なくとも考えなくてはなりません。

国内でも多くの人が亡くなりました。
2020年6月現在も、東京都で感染者が増え、依然として収まる気配はありません。
考える材料としても、コロナ禍で何が起こり、何を「自粛」し、結果、僕らに何が残ったのかを精査する必要がいまこそあるのではないでしょうか
むしろ、考えないことのほうが次のリスクに気が付かない恐れがある。
ということで、コロナ以前から考えたこと、コロナ最中やそのあとに考えたことなどを、何回かに分けて投稿していこうと思います。

シリーズ名はずばり、「コロナの時間」。
不定期で少しずつ、エントリーを投げていきます。

投稿記事

コロナ禍以前に書いたもの

コロナ禍以前、コンテンツ投稿サイトnoteに書いた記事を、加筆修正して再投稿しています。

コロナ禍以降に書いたもの

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。