【コロナの時間】たかがキャベツか?されどキャベツか?それとも何がキャベツか?

キャベツから考えたこと

玉キャベツがそのまま置かれたドラマのシーン

とあるドラマで、学校の屋上に畑を作り、野菜を育てるというシーンがありました。
しかし、そこに植えられていたのは、スーパーで買ってきたままのキャベツがぽんと置かれていただけ…。
番組の制作側がキャベツが本来、どのように生えているのか分からないのでしょうか…。
世間では苦笑とともに批判を浴びたようでしたが、僕はあり得るハナシだと思ったのです。

そもそも、都市圏をはじめ、その郊外であっても住宅地の場合、大きな「畑」ってあまり存在しません
ゆえにキャベツを栽培している現場を、その地域周辺で見かけることがあるのでしょうか。
「キャベツが育っている状態」を見たことがないということは実際にあり得るし、都市圏への人口集中が極まるなか、今後もそういった出来事は多くなると僕は思います。

忙しい中で「野菜」を食べようとすると…

我が家は好んで野菜を食べる家族ではありませんでした。
食卓にはたいてい、肉が中心の食事が並びます。
強いていうならば、野菜は惣菜で購入したものが並ぶくらい。

そんな食生活を続けていたとある日、身体に異変が生じたのです。
ストレスに弱くなり、20代のうちに外科的な手術を3回も受けました…。
そのたびに医師から言われたのが、野菜不足
どうやら僕は消火器系が弱いらしく、日ごろ気を付けていないと、ストレスの影響が消化器系にあらわれる。
最後には医者から「君、いますぐ手術だから!」と言われる状態に追い込まれるのです…。

以降、積極的に野菜を取り入れる生活となりました。
しかし、忙しない生活のあいまに少しでも野菜をとるのは、なかなか難しいこと。
そこでよく利用するのが「袋入りのキャベツサラダ(カット野菜)」です。

「キャベツはキャベツ」という言葉

このキャベツサラダ。
当たり前のハナシですが、もとは「玉」のキャベツです。
しかし、我が家と同様に玉ごと消費する家庭が減ってきているというのです。
いわゆる「加工」されたのち、各家庭で消費されるのがメインとなりつつある

もともと西日本で加工キャベツの利用が盛んでしたが、最近では関東圏でもその需要が高まってきているのだそう。
キャベツをメインとしているとある種苗会社の役員さんに話を聞いたことがあります。

あらゆる品種を開発しても、結局、スーパーに並ぶとき、あるいは食卓に並ぶときには「ただのキャベツ」になる。
それも加工されればその傾向は一層強くなるだろう。
キャベツはキャベツなのだから。
だからこそ、キャベツを生産する農家は価値観を改めなければならない。
私たちはむしろ「加工用のキャベツ」をつくっているのだと。
キャベツ本来の味がどうのこうのより、どう消費者が活用するのかということに向き合うべきだ。

この話を一緒に聞いたキャベツ農家は「あんな話は納得できない」と憤懣やるかたない様子でした。
しかしその問題は、避けて通れない生活環境(ライフスタイル)の変化によるものだと僕には感じたのです。
それと同時に、他人事ではないとも感じました。
野菜農家だけではなく、鉢花農家もいずれ、モノの均一化の波にのまれる…と。

キャベツって様々なキャベツがあるのです。
春キャベツ用、冬キャベツ用をはじめ、産地に合わせたもの、用途に合わせたものなど多種多様。
けれど、役員さんのハナシのとおり、スーパーなどの店頭に並ぶときには「キャベツ」としかアナウンスされません
強いて言うならば、産地の表示があるくらい。
こんなにも幅広いラインナップがあるのにも関わらず、消費者の手に渡るときにはただの「キャベツ」になってしまうのです…。
そこに寂しさを覚えるのはきっと、僕だけではないでしょう。

けれど単純に、美味しくて、用途を満たすものであれば何でもいいと考える売り手と買い手の思惑も、分かるといえば分かる。
売り手にとってみれば、いちいち品種の特性を区別するより、均質な商品を適切な価格で大量に販売できれば、負担も少ない。
買い手にとっても、手ごろな価格の商品を新鮮なままに本日の食卓に使うことができれば、それでいい。
どこか「効率が良く」「スマート」で「安価」な販売を推し進めた結果が、日頃口にする「キャベツ」に起こっているような気がするのです。

でもそれって、「キャベツ」に限ったことではないと思うのです。

「っぽい」のだったらなんでも良いよね

5月の母の日前、とある夫婦にこんなシーンがあったら?

とあるお嫁さん

ねぇパパ。
今度の母の日、忙しくて選ぶの大変だから、義理のお母さんには、5,000円くらいのこんなカーネーション贈ればいいんでしょ?

とある旦那さん

母さんは花が好きだって言ってたからなぁ。
「っぽい」のを選んでおけばいいと思うよ

こんな露骨なシーンはあまりないとは思いますが、似たようなことは日本中で起こっているような気がするのです。
カーネーションはただのカーネーション。
アルトロメリアはただのアルストロメリア。
どんな農家がどこで育てようとも、植物にどんな特性があろうとも、無難な植物がギフトやブーケなどに使われるだけ。
みんなが選ぶ同じものを買って置けば安心だし、贈らないよりは気持ちとして渡さなければ…。
しかもネットで検索すれば、どんな贈り物をすればよいかの「相場」が瞬時に分かる。
無難なギフトが「当然の正解」として強く存在しているような気がするのです。
そんな時代が僕らを待ち受けている?
いや、もうそんな時代の真っただ中にあるような気がしてなりません。

そうなっている以上、ますます贈り物も便利になって、相手のことを考えながら選ぶ手間も簡素化されていくと思います。
カタログギフトなどは、贈る側・贈られる側の双方ともに、精神的な負担もあまりありませんし…。
たとえば「母の日専用」のカタログギフトがあったら、または一般化したら、贈られた側はいったい何を買うのでしょう。
スイーツ・日用品・衣服・etc…。
あらゆる商品が多様にまみれるカタログの中で、園芸用品が選ばれることがあるのでしょうか
カタログ制作側は売れるものを載せるはずで、統計などの結果から、母の日の定番商品を載せるとは限らないと思うのです。
考えすぎでしょうか。

「便利」は不可逆的

だからと言って僕は、カット野菜を食べるのを辞めようとは思いません
調理時間の問題もあるし、利便性と必要量から考えれば、独り暮らしに欠かせない食品だからです。

便利だからこそスマートフォンがこれほどまでに普及した。
いま「ガラケーがクールだから使え!」って言われたとしてもきっと、素直に使うことはないでしょう。
ボタンを何度も押さないと文字入力できなかったり、ガラケー対応の、ガラパゴスなウェブサイトしか容易に閲覧できず、不便だから。
そうです。
もう「不便」には、そう簡単には戻れないのです。
同様にカット野菜もますます、消費者に受け入れられていくはずです。
だって、便利だから。

それとともに、実態としてのキャベツが何なのか、分からなくなるとも感じます。
都市圏の「都市化」はますます進み、ICTが発達すればキャベツも屋内で栽培されるかもしれない。
そうなればますます、本来のキャベツが子供の目にも触れられなくる。

だからこそ僕ら1次産業に従事する人間は、そのリアルな現場を伝えるべき
伝えたところで「ブラックだ」などと批判されるのであれば、改善すればいいだけのこと。
改善しなければ、ますます労働者が集まらず、尻すぼみの速度は倍加するのみです。

誰かの商品に取って代わられるものをつくるの?

また、カット野菜が食卓に多く使われるようになるのなら、それを見越した対応も必要だと考えます。
花卉園芸も同じく、商品の個性を付加できないような環境であるのなら、僕は個性のない商品を個性のないまま売ることは回避したいです。
いくら多くに人の手に取って貰えようとも、そこにストーリーもなければ理念もないのなら、やがてコモディティの波に飲まれるからです。
誰かの商品に取って代わられることを知っていて商品をつくること。
もうそこには「意味」がないのではありませんか?

キャベツはキャベツ。
でも、そもそもキャベツって、なに?ってなる前に。

この記事は2020年2月20日、noteに投稿した記事を加筆・修正したものです

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。