【コロナの時間】植物を育てる「素養」ってあると思う。

僕は「旬のモノ」を知らない

園芸業界のメイン層

いまの園芸業界において消費する層は大別すると、

  • 幼少期から自然に触れ、植物を育てる原体験のあるシニア層
  • SNSなどあらゆるメディアを駆使し、そのなかで「自分なり」の植物を栽培する若年層

の2つに分けられると僕は思います(かなり大雑把ですが)。
そして園芸業界は、時間にもカネにも植物を栽培する空間にも余裕のあるシニア層が支えている…。
だからこそシニア層だけを囲い込んで商売しよう!というのは個人的には反対ですが、これは事実のようです。

「旬のモノ」のハナシが合わない

僕ら(1980年代うまれ)よりも世代が上の、親世代にあたる人と植物に対する会話をすれば、いつも何かしらの齟齬が生まれます
特に自然のなかで採れる「旬のもの」に関して話題が及ぶとき、明らかに話が合わなくなるのです。

神奈川の住宅街で人生の大半を過ごした僕には、「旬のもの」ネタには未知の話題が展開されることが多い…。
例を挙げれば、ふきのとう、筍、ぜんまい、山椒、長ネギ、キャベツ、大根、白菜、さつまいも、イチゴ、メロン、カボチャ…枚挙にいとまがありません。
これらが旬のとき、決まってどう栽培するか、どう収穫するか、どう調理するかで盛り上がるのですが、まったくをもってその一部ですら、僕には経験したことがないのです(サツマイモ堀りとタケノコとりはあったか?)。
だから話に入っていけない…。

前回の記事に記した通り、我が家の食卓に上るのは、すでに加工された調理品たち。

思えば僕は「旬のもの」を「旬のもの」として認識し、口に運んではいなかった。

そんな話を聞くにつけ、僕は彼らが羨ましく思うのです。
幼い頃から「いま採れるもの」の収穫物に触れ、当たり前のように「旬のもの」の「旬の味」を覚えることができた。
だからこそ、食材の美味しさを理解し、食材の際立たせ方を知っている
しかも、身近にそれらを育てている場所や人が居て、「旬の感性が」人から人へと継承されているのです。
「つくる」「とる」「食べる」が、ひとを媒介することによって、強烈に身体の中にインプットされていく…。

群馬に来て「コレだな」と思ったのは、祖父母が自ら作った、あるいは近所の人が持ち寄った野菜を、親世代が孫へ食べされるとき、決まっていう言葉があるのです。
「あ~ん…、美味しいでしょう?」
きゅうり、ナス、トマト、ピーマン…。
子供が嫌いそうな、素に近い状態の野菜を食べされるときでも、「美味しいでしょう」という言葉を持って「美味しさ」をインプットしている
そして親自身も美味しそうに食べる。
そのあとの子供の様子を見れば、どんな野菜でも美味しそうに食べている。
もっとも、ほんとうに美味しいのは間違いないワケだし…(笑)。
こうして親世代から子世代へと「美味しさ」のインストールは繰り返されていくのだと僕は感じたのです。

「栽培」という根源的な能力

僕は紛れもない核家族のなかで育ち、周囲に畑がある地域とはいえ、年を追うごとに住宅地に変わっていきました。
「旬のもの」といえば、スーパーで売り出される「地元農家の採れたて野菜コーナー」のモノくらいしか入手先がありません。
市民農園は満員で何年もキャンセル待ち。
農家の親戚なんて居ません。
もしも僕が神奈川県の地元で子供を育て、群馬の子供のような「旬のもの」を味わせてあげたいと思えば、もっと郊外へ出て、多くの時間とコストをかけなければ、ほんとうの旬のものは味わえないと思います。

残念ですが、都市部に住まうことで得られる便利さと引き換えに、「栽培する」という、ある種、人間にとって根源的な能力を絶望的なまでに失いかけているように僕は考えています。
旬のものがつくられる景色とそこにある空気感(温度、におい、風など)を身体いっぱいに浴びるからこそ、「旬のモノ」の物語を受け入れることができる。
タケノコが生えてきそうな時期を何日も過ごし、観察し、ここぞと思ったタイミングを見計らい根元から掘り取る五感を使った経験があるからこそ、「旬」が成り立つ。
当たり前ですが、伸び切ったタケノコを採っても美味しくはないのです。

つまり、「旬」を知ることとは、植物の動きを潜在的に認識していること
シニア層の彼らの奥底には、そんな経験があるのではないかと僕は考えています。

そもそも彼らは、植物への造詣が深いです。
食材が土から実るまでの原体験を知っているからこそ、「栽培」という行為へのフィソロジーを誰しもが(それなりには)確立しているのではないでしょうか…。
理論的ではなくとも、直観的に、あるいは身体的にどうしたら植物が動くのかを捉えられている。
ゆえに植物への「基本的な理解」が備わっていて、子供の頃より植物に触れている時間の多い人ほど、園芸への理解も進んでいるように感じます。
原体験からの知識と経験があり、その上に生活がある
そんな前提条件が身についているからこそ、植物を育てることへの理解が僕らよりも数段、早いし、楽しみ方を知っているようにも思うのです。

そして彼らの消費が、僕らの園芸業界を支えているという。

植物と触れ合う機会は確実に減る

農作業という「授業」、つまらなかったなぁ。

ここで僕の少年時代のハナシ。

小学生のとき、学校農園で育てたのはインゲンマメ。
中学生になってからは、放課後や夏休みにサツマイモ畑の草取りを交代で行いました。
どれも授業の一環で、周囲の友人は非常に退屈な作業だと愚痴をこぼしていました。
用事があるからと来ないヤツもいたし、来ても作業をしないので、そのたびに教師から「ちゃんとやれ!」と怒られていたような気がします(笑)。
幸いにして僕は、何も考えていなくても土をいじっているだけで怒られないので、性に合っていました(笑)。
ただし、「作業」を強制されることには当時から、強い違和感を持っていました
だって面白くないから。

園芸イベントに足を運ぶと、「花育」に関する冊子や児童の製作物が掲示されることがあります。
どれも素晴らしいインスピレーションと研究結果で、大人顔負けの出来栄え。
ですが。
課題を提出した何十、何百もの児童・生徒の中から、農業や園芸関係に就職する人はどのくらいあらわれるのでしょう。
はたまた、園芸など植物を栽培・装飾する趣味をもつ人はいずれ、どのくらい出現するのでしょう。
僕はこの先、植物にまつわる趣味を持ったり、職業に就く人は減る一方だと考えています。

なぜか。

それは単純に、植物と触れる機会が減ってきているから。
同時に、機会があったとしても、授業の一環として強制されるから

僕が受けた教育は、サツマイモは塊茎植物か根茎植物か、はたまた塊根植物かを問いて、それを正解できたことに重きを置くけれど、重要なのはそこじゃない。
サツマイモをちゃんと育てられたことを評価するべきで、サツマイモをうまく育てられなかった原因をアドバイスすることのほうが大切なのではありませんか。
教師も学校農園の専属農家に任せっきりで、その畑は誰が手を入れているのかよく分からない。
教員?生徒?はたからみれば、ほとんど農家のひとが管理していたようなものです。
そもそも、必要量のサツマイモを確実に収穫でき、採れた野菜を調理するところまでが授業の一環だったから、失敗が許されない。
だからこそ、生徒に「いま、ここ」で行う農作業の意味を考えさせず、ただただ放課後や夏休みに輪番での作業を命じた。
教師も農園を勝手に手入れする理由がないし、生徒にやらせることもない。
けれど、授業。
ゆえに強制労働のような、断片的な草むしりと、答えありきのつまらない作業の連続だったなぁと、今になって思うのです。
本質的には農家がつくったサツマイモを学校が買い取っただけじゃん、みたいな。
気がついたら、僕らが育てたような、育てていないような、立派なサツマイモが「収穫祭」という名の調理実習に用意されているのだから(笑)。

初心者になるのは奇跡的

ブログやnoteにも何度も書いていますが、これからは地方での子育てが難しくなる一方です。
結果として、より栄えた、生産年齢人口比率の高い地域へ子育て世代は集中することになるはず。
人口が一極化し、植物を栽培するスペースは狭小化。
学校教育の現場でも、土と太陽光で植物を栽培する余裕がより一層、少なくなるのです。
そして前回の記事のように、「キャベツ」とは何なのか、分からなくなるのです。

農業を学ぶ、植物を学ぶ、園芸を学ぶ行為は場所をとる。
そして、植物の生長過程を観察するためには時間を要す。
ゆえに植物を愛でる素養とは、実に高尚なものとなるかもしれません。
あるいは野暮ったいことと忌避されるかもしれません。

だからこそ僕ら園芸関係者は、いつもそのことを頭の片隅にしまっておこう。
いまの園芸業界を動かしている人はたぶん、植物への「原体験」をもった人がほとんどでしょう。
けれどこれからは僕のように、植物を栽培することの行為を知らないひとが多くなるはず

無関心のひとが植物の初心者になるのは、まるで奇跡的なこと
だからこそまずは初心者の心をつかむ取り組みを。
無関心のひとが植物の初心者となるまでの機会づくりとサポートを。

ここらへんはもう、業界の知恵だけでは無理です。
あらゆるものがスマート化し、変化が早く、伝える(宣伝する)方法も多種多様。
そして「どう楽しむか」の方法も多岐にわたります。
サポートも旧来の方法だけでは不十分です。
外部の人たちとアイディアを出しあい、侃侃諤諤するしかないと僕は思うのです。

この記事は2020年2月22日、noteに投稿した記事を加筆・修正したものです

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。