ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
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人類の第2次低脳化現象  (1) 人類は過去に一度 “低脳化”  している

2018-09-19 13:12:25 | 哲学・歴史・考古学

人類の第2次低脳化現象  (1) 人類は過去に一度 “低脳化” している 

今も進化の途上にある人類は、ともすれば自分たちを、狩猟採集時代、農耕時代、産業革命、科学革命、IT革命を経つつ、ますます “知的”に、より “賢く” なってきていると思いがちである。

以下に展開するわたしの説は、「人類は今、“第2次低脳化” の過程に入っている。人類は “総体” としては今リアルタイムで  “より低脳化しつつある”」 というものである。

わざわざ “第2次” と言っている点にもう気がつかれたであろう。そうである。 “第1次”低脳化 がすでに過去にあったのである。

この part 1 では、まずこの過去の “人類の第1次低脳化” について解説していきたい。

実は 「人類の低脳化」 についての指摘は10年以上前から出てきている。それらはほとんどが、人類が 農耕生活 に移行した頃に起きたというものである。

  

過去20万年間の人類の化石の検証によって判明した興味深い一つの考古学的事実がある。

この化石の調査はヨーロッパ、アフリカ、アジアで発見された人類の骨と頭蓋骨の大きさと構造に重点を置いたものであった。この研究チームの発見によると、最大のホモサピエンス が生きていたのは、今から2万年から3万年前であり、その種族の体重は176 から188 ポンド(79.83kg から85.28kg)のあいだで、脳の容積は 1,500 cc であった。

 

さらにこの研究チームは、およそ1万年ほど前に人類の体格と脳の大きさが小さくなり始めた ことを突き止めた。 

 

 

2万年~3万年前

西暦 2000- 2010

  体 重

 

 比率

79.83 – 85.28 kg

69.85 – 79.83 kg

1

0.9

  脳の容積

 

比率 

1,500 cc

1,350 cc

1

0.9

 翻って、2000年から2010年の10年間における人類の体重は 154から176ポンド(69.85kg から79.83kg)、脳の容積は 1,350cc である。2万年から3万年前の最大級の人類の脳の 1,500ccと比べると、およそ10%の減少なので、およそテニスボール1個分が失われたと言える。

 

20万年近くほぼ変わらなかった“ビッグサイズ”の人類が 急に“小型化” した  のはなぜなのか?研究者たちは、およそ 9,000年前に始まった、狩猟採集生活から 農耕生活への移行 に関係があるとみている。

農耕生活への移行によって、食料の豊富な収穫が確保できるようになった一方で、栽培植物が非常に限定されていたために ビタミンやミネラルの慢性的な欠乏症 を引き起こし、それが人体の成長を妨げた可能性がある。中国の最初期の農民は米のような穀物を食べていたが、それらは成長に欠かせないビタミンBナイアシンを含有していない。

しかし、穀物を主食にしただけでは脳の容積の低下は説明できないだろう。

ミズーリ大学心理学教授のデビッド・ギアリーのチームは人類の190万年前から1万年前までの頭蓋骨の進化を調査した。ギアリー達によれば、その190万年近くの長い間にわれわれの祖先の社会的環境はますます複雑化してきた。ギアリー達は社会環境の複雑性の指標として 人口密度 を用いる。彼らの仮説によれば、人口密度が高くなり、より多くの人間がより近くに暮らすようになればなるほど、集団間の交流が多くなり、分業が進み、富が増え、人々の間でのさまざまなやりとりが増大する。

https://phys.org/news/2009-06-competition-bigger-brain.html

ギアリーのチームは、人口密度が高くなるにつれて脳の大きさが減少する ことを発見した。社会が複雑化するにつれて脳のサイズが小さくなったのは、人間が、個体間と集団間で協力しあうことによって、一人一人は以前ほど賢くなくても生存できるようになったせいかもしれない。

 

しかし、デューク大学人類学科のブライアン・ヘア助教授は、この脳のダウンサイジングは現生人類が祖先よりも馬鹿になったということを意味しないと言う。ヘア助教授は、野生動物の家畜化における脳の縮小化 についてこう語る。

「ハスキー犬はたしかにオオカミよりも脳が小さいかもしれないが、オオカミよりも賢く、より洗練されている。ハスキー犬は人間とのコミュニケーションにおいて理解力を示し、人間の子供のように振る舞う」 と。

 

しかし、わたしはこの説に異論を唱えたい。牛でも、羊でも、ブタでも、ヤギでも、馬でも、そして犬でも猫でも、家畜化した動物は一般的に脳が縮小し、“低脳化”していることは否定しがたい。

 

いちばんの理由は、家畜化された動物は人間に保護されることによって、他の肉食獣(オオカミ、トラ、ライオン、クマなど)によって襲われて食べられる危険が劇的に低下したために、警戒心が不要になり、脳の負担が大きく軽減したため と考えられる。

野生状態では、より脳が大きい警戒心の強い賢い個体ほど、より多くの子孫を残していたはずだ。ボンヤリしていた賢くない個体ほど肉食獣の餌食になっていたはずだ。しかし、家畜化されると、賢くない脳天気な個体も同じくらいに子孫を残す。

実際、人間の裏をかいて逃げようとしたり、家畜化に抵抗する扱いにくい牛や馬や羊などはみな飼い主に殺されてきたのが家畜の歴史である。人間が特に知能の高い個体を淘汰(排除)することによって、家畜の “低脳化” を加速してきたのである。

“不要な能力” が淘汰されることには何の不思議もないと言えよう。牛や豚に高い知能を求める理由はないのだ。

家畜化されれば、賢い個体も、賢くない個体も平等に同じだけエサにありつける。そうなると、脳が大きくて賢いことには何のメリットもなくなる。そうすると必然的に脳という器官の重要性が一挙に低下する。そうして、“重要性の低い部署への予算の削減” の結果、脳のダウンサイジングが進むのだ。

 

 

 

 

 

 

 

チワワやトイプードルは、 “食われる心配” も “食う心配” もない ので、人間様の相手という芸当をする余裕があるのだ。もし過酷な大自然に放り出されたら、その小さな脳では、自分で獲物を獲ることもできずに飢え死にする前に、肉食獣の餌食になるであろう。

そもそも 脳は過酷な自然界における生存の為の器官である。家畜のように生存が保証された環境では退化しないほうがむしろおかしい(不自然な)のだ。多少人間の相手ができることが知能の高いことではないのである。

 

話を人間に戻そう。

人間に戻して言うと、人間は “家畜化” されたために脳が縮小化した と言えるかもしれない。家畜となった草食動物たちは所有者のおかげで、もはや “食べる心配” がない。そして、大型の肉食動物に追い回され、襲われて “食べられる心配” もない。

人間も同じである。かつて人間を襲っていた大型肉食獣は、弓矢や槍といった飛び道具を集団で使いだした人間から逃げるようになり、形勢が逆転した。人間は農耕生活に移行したために定期的な安定した収穫により “食べる心配” が劇的に少なくなった。

狩猟採集時代は家族や部族のメンバーは、食糧の供給、危険の回避といった生存の為の知識や技能を全員が身に付けなければならなかった。しかし、農耕時代に入ると、まず食料の供給が安定した。農耕は基本的には単純な作業の繰り返しなので、頭を集中的に使わなければならない切迫した状況に直面する場面がずっと少なくなった。

狩猟採集時代は、石器の作り方、弓矢の使い方、獣の習性や追い方や避け方、食べられる植物や木の実の見分け方、薬草の見つけ方や使い方、生活圏についての地理や植物相、動物相についての知識などなどの大自然でのサバイバルのためのありとあらゆる知識をひとり一人が身につけなくてはならなかった。狩猟採集民は一人一人がオールラウンドな “サバイバリスト” でなければならなかった。

一人ひとりが“トライアスロンの選手”だったのだ。身体的にも頭脳的にも、持てるキャパシティをフル回転する場面は珍しくなく、そうした臨機応変な能力が一人ひとりに求められた。

 

しかし、農耕生活に徐々に移行するにつれて、そうしたライフスタイルは根底から変わってしまった。“農耕”はまさに “ゲームチェンジャー” であった。農耕生活は “野球” のようなものである。

基本的には栽培植物の成長サイクルに従った集団的なルーティーン活動である。農業はたしかに家族単位でもできるが、穀物栽培は大きな集団でおこなうことによって大きな収穫が得られる食料供給方法である。

農耕民は “野球選手” のように、ただ “監督”  の言う通りに動いていればいいのだ。農業は季節のサイクルに支配された事業である。そのサイクルを理解し、穀物に詳しいごく一部の人間が集団に指示して動かせば、すべてはうまくいくいのだ。

野球と同じである。重要なのは “優れた監督” と “選手たちのチームワーク” なのだ。

野球チームの選手全員が試合に勝つための作戦に頭を悩ませる必要はない。監督の手足となって、ただ指示に従っていればいいのだ。

そうして、個人プレー(生物個体としての能力) よりも チームワーク(集団としての能力) が重要になってきた。

農村ではごく一部の人間以外は、自分の身体や頭脳のキャパシティを最大限に使う場面はほとんどなく、長老やリーダーの言う通りに動いていれば穀物倉は自然にいっぱいになり、人口も増え、分業も進み、階級も発生した。

頭脳を使うのは “監督” であり、“大多数のメンバー” は “監督の手足” となって動けばいいだけであれば、全体としての人類の “低脳化” は必然であった。こうして “人類の第1次低脳化” が進行した。これは、人類のその脳の活動の負担が軽減化されていくプロセスであった。

もちろん一部の人間は常に他の大多数のメンバーよりも脳を活動させており、こうした差、分業は、階級分化につながった。つまり、人間社会が “頭” と “身体” に分化、分業化したのである。 動物社会ではこうした分業化は人間以外ではほとんど見られないが、ミツバチ、シロアリといった “社会性昆虫” ではごく普通に見られる。

 

穀物主体の食糧供給体制によって、飢えるリスクは大幅に減り、人口も増えたが、構造的で慢性的な人類の栄養失調の時代が始まり、発育不全や病気のため身体も小柄になった。人口密度の高い集団生活によって、疫病が繰り返し発生した。農耕によって食糧の貯えができ、飢えのリスクから解放されることによって、脳に対する “淘汰圧” が低下し、人間の一人ひとりの “生物学的な脳” という器官は退化した。そして、“社会性動物” として、“チームワーク” を強みとしてきたのである。

 

進化における何の不思議もない “微調整のプロセス” である。“設備投資の合理化” の結果である。

 

地上や海中で十分にエサを得られる鳥が次第に翼を退化させていったのと同じである。ダチョウ、キウイ、ヒクイドリ、ヤンバルクイナ、ペンギン等々40種にものぼる鳥たちが飛翔能力を失ったが、「飛べなくなった」 というよりは、「飛ぶ必要がなくなった」 のである

 

こうした現象を、わたしは “局部的退化現象” と呼ぶ。全体としてはよりよく適応して進化していても、システム内で局部的な後退、退化を含む場合はめずらしくない。深海魚や体内寄生虫にほとんど目がないのも、地中生活をするモグラ、ミミズに視力がほとんどないのも 実に合理的な “局部的退化現象” である。

 

ヘビが足を失ったのも、ティラノサウルスの前足が極端に萎縮していたのも “設備投資の合理化” の結果としての “局部的退化現象” である。“企業内での限られた予算の再配分” における “不要な部署への予算の削減” の結果 と言えばわかりやすいだろうか。

実は、人間は、 “個体” としては、この “局部的退化現象” のデパート のような存在なのである。脳の退化は単にそうした “設備投資の合理化” の一端にすぎないのだ。

 

脳や知的能力に限らず、人間のほとんどの感覚 (嗅覚、味覚、視覚、聴覚) も過去数千年の間にかなり退化していると思われる。

おそらくかつての人類は、いわゆる “第六感” と言われるような、今日では超自然的と見なされるような感覚も具えていたに違いない。

さらに言えば、さまざまな運動能力や体力全般 (握力、腕力、脚力、背筋力、跳躍力、持久力、敏捷性、咀嚼力(噛む力)) なども現代に下ってくるにつれて明らかに下回ってきている。

ご注意頂きたいが、これはあくまでもそれぞれの時代の人間の想定される平均値を問題にしている。現代のオリンピック選手と新石器時代の平均的人間を比べて反論しても意味が無い。いつの時代にも一部の能力に突出している人間はいる。

このように人間は、 “個体” としての “生物学的な身体的、知的能力” は相当に退化して貧弱、脆弱になってきている。にもかかわらず、“社会集団” としては、より環境に適応してきて、この地球上では かなり成功した “社会性生物” なのである。

この惑星で同様に繁栄している社会性生物としては、“社会性昆虫” のシロアリがいる。一匹一匹のシロアリは実にひ弱で取るに足らない生き物である。

彼らの強みは、 “集団” としての “チームワーク” であり、 “システム的適応能力” である。

「シロアリはとても弱い生き物です。目は見えず、餌は匂いのみで見つけます。体の表面もやわらかく、他の生物に触れられただけでもすぐ死んでしまったり、太陽の光を浴びればたちまち干上がってしまいます。そのため、移動する際は他の天敵から身を守るために、蟻道(ぎどう)という木・木片などで作ったトンネルを利用します。」http://www.shiroarikujo.jp/ecology/

 

まるで今日の人間のようではないか。或る意味で 現代の人類は “シロアリ化した霊長類” と言えるかもしれない。体毛のほとんどない人間の無防備な裸体は、シロアリの柔らかくて傷つきやすい体を思わせる。

 

 

人間の “個体” としてのその最盛期は農耕生活に入る前であった とはっきり言えるだろう。

 

「人間は “低脳化” してしまった」 と嘆くより、「“低脳化” しても集団としてしたたかに生きていけるようになった」 としてむしろ喜ぶべきなのかもしれない。“チームワークに長けた集団” としての進化と繁栄においては、“個体” としての身体的、知的な能力はさほど要求されなくなってきたとも言える。少なくとも進化論的には決して不合理な展開ではない。

 

しかし、代わりに “社会的な脳” が形をとってきた。つまり、“支配階級” の発生である。“人間”と“家畜”の関係  が “支配階級”と“隷属階級”の関係 に反映成されてきたのである。

  

 

 

植物資源

動物資源

人間資源

移動生活

採集

狩猟

 

 

定住生活

(縄文文化等)

採集

狩猟(漁猟)

 

定住生活

村落、都市へ

栽培(農耕)  

自然への介入・管理

家畜化

自然への介入・管理

奴隷化、階級化

(人間の家畜化)

自然への介入・管理

                                                         ザウルス

 ちなみに、「定住= 農耕」 ではない点にご注意いただきたい。農耕以前に定住生活がすでに存在していたことは、わが日本列島の1万2千年以上続いた 縄文文化 をはじめ、海外のいくつもの住居跡の考古学的な発見と調査によっても明らかになっている。

 

「野球チーム全員が試合に勝つための作戦に頭を悩ます必要はない。監督の手足となって、ただ指示に従っていればいいのだ。」 と上に述べた。そして、こうした “頭” と “手足” の分業体制は農業革命、産業革命、情報革命を経て今日に至るまで続いている。

今日のいわゆるサラリーマンが、もちろん監督などではなく、その他大勢の “手足となる野球選手” であろうことは誰にでも想像がつく。しかし、大会社の社長ですらそうした “選手” なのである。グローバル経済にあって、“監督たち” は文字通り “ひと握り” である。しかし、その “監督たち” はもはや人間ではないのだ。

 

 人類の第2次低脳化現象 (2)あなたも今リアルタイムで “低脳化” している?

 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
シャンティフーラに紹介されています (希ノ醍 輝平左ヱ門)
2018-09-23 22:11:46
お世話になります。

ザウルス様の記事が、2018年9月23日21時のシャンティフーらの時事ブログに紹介されています。
(希ノ醍 さま (ザウルス)
2018-09-23 22:17:26
いつも貴重な情報をありがとうございます。

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