2018年10月13日 (土) | 編集 |
訪問日:2017年1月
下津井城は岡山県倉敷市にあった城です。
県史跡に指定されています。築城時期については正確にはわかっていないものの,16世紀の末頃に島であった児島に宇喜多秀家が築いたとされます。宇喜多氏の本拠地であった岡山城は瀬戸内海より内陸に築かれているため,瀬戸内海を監視する必要があったようです。江戸時代に入り備前国が池田氏の領地となると,池田輝政の四男である池田長政が入り,現在残る石垣作りの城へ改修しました。1693年に一国一城令により廃城となっています。
宇喜多氏以前にも,祇園神社のある尾根先端に城があり南北朝時代には足利尊氏が立ち寄ったと伝わるのですが詳細は不明です。ここでは下津井古城としています。
また,祇園神社の麓には幕末の1863年 岡山藩により祇園下台場が築かれています。
●瀬戸大橋架橋記念公園の駐車場。
背後の山に下津井城がありここから登るというのが一般的かもしれません。
●もう一つのアクセス路は車で細い道を登れば二の丸の下までたどり着くこともできます。
公園の案内板ですが,下の赤丸の駐車場から上の赤丸まで移動してきたということです。
●車を止めたのが二の丸の延々と続く石垣の下あたりになります。
●このように石垣が折れを伴う部分もあります。
特に上る場所も無く,三の丸の東端まで進みます。
このように,細長い丘陵に順番に曲輪が並べられた連郭式の縄張りです。
●三の丸と中の丸の間にある堀切(縄張図には掘割と記載)。
先に中心部から遠い方の中の丸に向かいます。
●中の丸の様子。面積の広い曲輪で,内部には土壇のような盛り上がりもあります。
●中の丸の石垣。元々,隅が鈍角のシノギ積みであったようですが,崩れてしまってます。
●東側で公園整備されているのは中の丸までで,その先にはデイサービスセンターがあります。
縄張図を見るとさらに奥に東出丸があるはずなのですが、未整備度全開。
石がゴロゴロある場所まではたどり着きましたが,靴紐が切れ進軍は断念。
縄張図に記載のある石塊の場所でしょう。
●この石塊の石は良く見ると加工石のようです。割石をした痕跡があります。
●次に三の丸に向かいます。三の丸ももちろん石垣で固められています。
●三の丸内部の様子。北側がやや盛り上がっているのは土塁の痕跡かもしれません。
●二の丸は本丸の帯曲輪のような曲輪です。
●二の丸の北側にある井戸曲輪の井戸跡。アクセス路が荒れていましたので,二の丸から直接下りました。
●最高所になる本丸。下津井城跡の石碑。
●本丸北隅には天守台が残ります。
●二の丸の西側。目隠しのような石垣が立っています。大手枡形の一部のようです。
●二の丸の西隅にある大手門跡,ここから複雑に折れ曲がり入っていきます。
●二の丸から西の丸に渡る土橋です。
●土橋を西の丸側から見ています。側面は石垣で固められていたことが分かります。
●西の丸の様子。
●西の丸の下にある馬場跡。
●麓海沿いの下津井古城があったと言われる場所に来ました。
●現在,下津井古城の上には祇園神社が立っています。
下津井城の出丸としての機能が残ったことも考えられますね。
●さらに祇園神社の下には幕末に築かれた祇園下台場があります。
瀬戸内の海上交通をにらむこの場所は,中世から近代まで交通・軍事の要衝でした。
遺構も良く残り公園として整備もされ車さえあればアクセスは難しくありませんのでお勧めの城跡です。
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下津井城は岡山県倉敷市にあった城です。
県史跡に指定されています。築城時期については正確にはわかっていないものの,16世紀の末頃に島であった児島に宇喜多秀家が築いたとされます。宇喜多氏の本拠地であった岡山城は瀬戸内海より内陸に築かれているため,瀬戸内海を監視する必要があったようです。江戸時代に入り備前国が池田氏の領地となると,池田輝政の四男である池田長政が入り,現在残る石垣作りの城へ改修しました。1693年に一国一城令により廃城となっています。
宇喜多氏以前にも,祇園神社のある尾根先端に城があり南北朝時代には足利尊氏が立ち寄ったと伝わるのですが詳細は不明です。ここでは下津井古城としています。
また,祇園神社の麓には幕末の1863年 岡山藩により祇園下台場が築かれています。
●瀬戸大橋架橋記念公園の駐車場。
背後の山に下津井城がありここから登るというのが一般的かもしれません。
●もう一つのアクセス路は車で細い道を登れば二の丸の下までたどり着くこともできます。
公園の案内板ですが,下の赤丸の駐車場から上の赤丸まで移動してきたということです。
●車を止めたのが二の丸の延々と続く石垣の下あたりになります。
●このように石垣が折れを伴う部分もあります。
特に上る場所も無く,三の丸の東端まで進みます。
このように,細長い丘陵に順番に曲輪が並べられた連郭式の縄張りです。
●三の丸と中の丸の間にある堀切(縄張図には掘割と記載)。
先に中心部から遠い方の中の丸に向かいます。
●中の丸の様子。面積の広い曲輪で,内部には土壇のような盛り上がりもあります。
●中の丸の石垣。元々,隅が鈍角のシノギ積みであったようですが,崩れてしまってます。
●東側で公園整備されているのは中の丸までで,その先にはデイサービスセンターがあります。
縄張図を見るとさらに奥に東出丸があるはずなのですが、未整備度全開。
石がゴロゴロある場所まではたどり着きましたが,靴紐が切れ進軍は断念。
縄張図に記載のある石塊の場所でしょう。
●この石塊の石は良く見ると加工石のようです。割石をした痕跡があります。
●次に三の丸に向かいます。三の丸ももちろん石垣で固められています。
●三の丸内部の様子。北側がやや盛り上がっているのは土塁の痕跡かもしれません。
●二の丸は本丸の帯曲輪のような曲輪です。
●二の丸の北側にある井戸曲輪の井戸跡。アクセス路が荒れていましたので,二の丸から直接下りました。
●最高所になる本丸。下津井城跡の石碑。
●本丸北隅には天守台が残ります。
●二の丸の西側。目隠しのような石垣が立っています。大手枡形の一部のようです。
●二の丸の西隅にある大手門跡,ここから複雑に折れ曲がり入っていきます。
●二の丸から西の丸に渡る土橋です。
●土橋を西の丸側から見ています。側面は石垣で固められていたことが分かります。
●西の丸の様子。
●西の丸の下にある馬場跡。
●麓海沿いの下津井古城があったと言われる場所に来ました。
●現在,下津井古城の上には祇園神社が立っています。
下津井城の出丸としての機能が残ったことも考えられますね。
●さらに祇園神社の下には幕末に築かれた祇園下台場があります。
瀬戸内の海上交通をにらむこの場所は,中世から近代まで交通・軍事の要衝でした。
遺構も良く残り公園として整備もされ車さえあればアクセスは難しくありませんのでお勧めの城跡です。
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