2019年8月17日土曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (3)


前回の許靖(2)で記した彼の曹操への手紙では、旅の労苦の説明のあとで自分は交通が途絶して北へ行けない、という話が続きます。そして彼は曹操を慕っているのに曹操の下に行けなことを大変残念がっています。
この時点で彼は曹操に仕えたいと願っていたことがよくわかります。孫策に仕えなかったのは曹操に気があった所為かとさえ思います。

ところで手紙を書くということはこれが北にいる曹操の下に届くことを前提としています。どのような郵便制度あるいは郵便業があったのかは知りませんが、人が手紙を運んで受け渡しすることができているはずです。ならば自分で行けばよいのにと思ったりします。親類縁者など見捨てられないので移動は簡単でない、というのなら無理な移動はせずに孫策に仕えるべきだったでしょう。
なお曹操宛の手紙の後に次の文がついています。
翔、恨靖之不自納、搜索靖所寄書疏、盡投之于水。
ここで翔というのは前回に出てきた張翔で強引に許靖を使えさせようとした人です。張翔は許靖の拒絶を恨みに思い、許靖の出した手紙を捜査して、ことごとく水(川のこと?)に投げ込んでしまった、というのです。長々と引用されていた許靖の曹操宛の手紙はどこに残ったのでしょう。曹操に届いたのでしょうか?彼の手元に写しでもあったのでしょうか?

後に当時の蜀の支配者の劉璋が許靖を招いたので、彼は蜀に行きます。曹操あての手紙では益州にいる兄弟たちに手紙を出したがなしのつぶてで返事がないと言っていたのですが、今度は蜀へ無事に行けたようです。劉璋はよほど許靖を買っていたのでしょう。巴郡・広漢の太守にします。この記述に続き、許靖伝では宋仲子が蜀郡太守の王商に、許靖は優れた人物だから指南役にされるべきです、という手紙を書いたとの紹介があり、さらに建安十六年(211)に許靖が王商の後任として蜀郡の太守になったとあります。
建安十九年(214)先主(劉備のこと)が蜀を支配すると、許靖を左将軍長史とした、とだけあっさりと書いてあります。
しかし、ここには重大な記述が漏れています。それは龐統法正伝第七の法正伝にあります。
璋蜀郡太守許靖、將踰城降、事覺、不果。璋、以危亡在近、故不誅靖。璋既稽服、先主以此薄靖不用也。
井波さんの訳によれば劉備が成都を包囲したとき
“劉璋の蜀郡太守である許靖が城壁を乗り越えて投降しようとしたが、事が発覚して、果たさなかった。劉璋は危機が迫っているために許靖を処刑しなかった。劉璋が降伏したのち、先主はこの事件のため許靖を軽んじ起用しなかった。”
となります。
法正は劉備を説得します。「虚名ばかりで実質の伴わないものがおり、許靖がそれですがすでにその名は天下に鳴り響いています。礼遇しないと、人々は(劉備は)賢者をないがしろにする、と考えるでしょう。」と述べて許靖を厚遇するようにさせます。
劉璋配下の重職にありながら劉璋が滅ぼされようという時に自分ひとりだけ真っ先に逃げようとしたのです。劉備が買わなかったのも尤もです。
また先主伝第二には建安十九年に劉備が成都を落とした時の記述には
許靖、麋竺、簡雍、爲賓友
とあり、許靖は麋竺、簡雍とともに賓友待遇の人となっていることだけが書かれ、逃亡事件には触れられていません。





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