ネガティブさの中にあるもの | ぶーぶーとダディ


離婚が決まったぶーぶーの友達のご両親、夫婦揃って知っていますが、お父さんの方とも話す機会がありました。奥さんはオーストラリア人ですが、旦那さんは私と同じ様に違う国から来た人。この国に家族もいないし、古い友人もいないしという点では私と似た立場。色んなことが大変だけど、ほとんど誰も知らない土地で、配偶者と死別して、一人で踏ん張ってきた私のことを考えたら、こういう事を言うのは失礼かもしれないけど、比べる事じゃないのはわかっているけれど、でも、勇気をもらえたし、頑張ろうと思えたと言われました。


自分がなんとかかんとか踏ん張って生きて来たことが、誰かの励みになるのは、少し嬉しいなと思いました。自分より境遇が大変そうな人をみて、自分のほうがマシな立場だと自分を奮い立たせる。そういうのは、なんだか違うなと思うんですが、共感出来る人を求めるのは全く別。私も、ダディが病気になった時、亡くなってしまった時、突然頼れる存在をなくしてしまった時、同じような経験をしてきた人を探しました。わかってくれる人がいる事が励みになりました。若年での配偶者との死別は、そうそうある事でもないので、身近では見つけられなくて、ブログを通して探しました。境遇が似ていれば似ているほど励みになりました。年齢が近い人や、近くに支えがない人、海外に住んでる人、どんな共通点でも、見つけることが出来たら励まされました。


生きている中で、苦しい状況にいる人に、どんな励ましや声かけが正解なのか。

ダディが亡くなった直後、私が耳にした励ましには、心に突き刺さるような言葉もたくさんありました。その時は、辛くて、悲しくて、憤ることもありました。悪気がなければ何を言っても良いのかと。だけど、五年経った今、「それでも良い」とはっきり思えるようになりました。人には、それぞれ、その人その人に、学びや成長のタイミングというものがあるのだと気付きました。本で読んだり、頭で考えたりして得る知識も大切ですが、人生の経験を通して身につけていく知識は、それ以上にその人だけのもので、なによりも価値のあるものです。だけど、自分が望んだからといって手に入るものではなく、むしろ、こんなに辛いのならば得たくはなかったという時に得られるものです。「得難い経験」だとはとてもとても思えないほどに辛いものかもしれません。ダディの命と引き換えになんか何も学びたくはなかった。でも、この苦しい経験をする前の自分は、色んな場面で気遣いや思いやりに欠けていたことがあると思います(今でもそういうことは多々あると思いますが・・・( ´Д`))。でも、実際は、本当に知らなかっただけ。こんな世界があるんだと想像さえできませんでした。実際経験してみたら、想像なんて及ぶ世界じゃありませんでした。だから、それを人に求めるのは違うと気づきました(中には、ものすごい感受性や洞察力、想像力をもって一つ一つの言動を選ぶことができる人ももちろんいらっしゃると思いますが)。今は、人生における色んな経験が大切だとぶーぶーに伝えてあげられます。ちょっと人とは違う経験をしてきたぶーぶーですが、だからこそ得たものもいっぱいある。

失敗することも同じ。日本では、失敗することがダメなことだという風潮がまだまだ残っている気がしますが、ぶーぶーには、大いに失敗してほしいなと思います。失敗しているのは挑戦している証拠で、頑張っている証。胸を張って失敗し続けてほしいです。悲しいのも苦しいのも、たくさん人を思い、愛した証拠。ネガティブだと忌み嫌われるものの中に大切なことがいっぱい隠されている気がします。時として、泣いているのは、向き合っている証拠。深い悲しみの中でも泣けないのは、自分や誰かをを守るために必死で戦っている証拠。何事もなかったかのように笑っているからといって、心の中も同じだとは限らない。悲しみや痛みが癒えて、乗り越えていくというよりは、上手な付き合い方を見つけただけ。全ての人、一人一人の中に物語があって、どんな人もその人なりの事情を抱えていることと思います。それを比べたり、ジャッジしたりするのではなく、豊かな想像力と思いやりを持って繋がっていくことができたらと思います。見かけで判断は世の常ですが・・・( ;´Д`)