木曽山中の妻籠城にひたひたと押し寄せた軍勢は七千とも。
城を預かるは、木曽義昌家臣・山村良勝。
城兵わずか数百、さて、いかにする?
知られざる古戦場14
妻籠城の合戦 「MGプレス」紙11月18・25日掲載
山村良勝(木曽・秀吉方)VS菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠(家康方)
天正12年(1584)9月
天正12(1584)年春、秀吉と家康の対立は、世にいう小牧・長久手の戦いへと発展した。
木曽の領主・木曽義昌は当時、秀吉に臣従していたことから対立の余波は木曽へも及んできた。
家康は配下の信濃衆・菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠に木曽攻めを命じたのである。
連合軍は木曽と美濃の国境に近い義昌の重臣・山村良勝が守る妻籠城(南木曽町)へ攻め寄せてきた。
妻籠城はなかなかの堅城だったが、数千ともいわれる大軍に包囲され、あたりの山も谷も埋まるがごとく、まさにアリ一匹出る隙間もないほどとなった。
▼現在の妻籠の宿から城山を望む
良勝は、木曽周辺の土豪・島崎、丸山、林、勝野氏らを率いて立てこもった。
守備兵およそ五百とわずかだったが士気はすこぶる高く、城攻めする徳川方に対して大木や巨石を投げ落とすなど、したたかな戦いぶりを示していたのである。
だが敵が力攻めを控え、次第に兵糧攻めの持久戦へ持ち込んでくると、城方は食料・武器弾薬が底をつき籠城が困窮してきた。
「敵は大軍なれど寄せ集めの烏合の衆…、油断はあるはず」
腐心する良勝は、配下の竹中小左衛門を呼んで策を練った。
すると、
「殿、わかり申した。このまま落城するより、イチかバチか、小左衛門、やってみまする!」
小左衛門は部下数十人を引き連れ闇に消えていった。
数日後。
「殿、戻りましたぞ!」
部下数十人を率いて城を抜け出ていった竹中小左衛門は、暗闇の中から現れた。
「おぉ小左衛門、よう戻った! 皆ずぶぬれか、なんじゃ、その螺髪のような髪は!」
山村良勝は嬉しさと驚きの声をあげた。
小左衛門は泳ぎに長けた者数十人選び、城の北を流れる木曽川を潜り対岸に渡った。
そして弾薬を調達、それを部下全員髪の毛にあらん限りくくりつけ、再び闇の川を潜り帰城したのだ。
妻籠城址の本郭からは、眼下に妻籠宿の街並を望むことが出来る。
城はそれほど高くないが、城の北と西は木曽川本流とその支流がつくる急崖に守られ堅固である。
▼妻籠城本郭
小左衛門らは北の木曽川急崖あたりの敵兵を手薄と見て脱出を図り、また戻ってきたのだ。
まさに「大軍に油断あり」だった。
莞爾としてほほえむ良勝。
夜気をふるわせやんやの歓声にわく城兵。
良勝は、ただちに逆襲の策を立てた。
城兵の一隊を再び抜け出させ、敵の退路となる山道の各所に伏兵とした。
そして戦いの準備を整えた城兵は、一斉射撃を開始、陣太鼓・鬨の声をあげた。
城方に弾薬は何もないと安堵していた徳川方は仰天した。
「まさか、援軍か!?」
あわてふためく徳川方。
そこを城方が打って出た。
さらに山々の各所に援軍と思わせるかがり火を見て、徳川方は我先にと潰走していった。
かくして戦局は逆転、城方は大勝利にわいたのである。
しかしこの後の政局は紆余曲折した。
義昌死後の良勝は家康に従い、関ヶ原の戦いでは東軍として木曽の安定を委ねられた。
良勝を見込んだ家康は大名並みの待遇を与え、木曽代官、福島宿の関守職を代々山村家は受け継いだ。
木曽町には山村代官屋敷址が復元されている。
次の巻は、上原城の合戦。
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