●平宗盛、維盛、そして重衡…といえば  | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

平宗盛とその子清宗の墓には、偶然「遭遇」した。

 

義経が元服した地、近江の鏡の宿を訪ねた折、近くに宗盛の墓があると知ったのだ。

「そうだ、平宗盛といえば、確か平家滅亡の時の総大将…」

平清盛の三男、母は時子。

清盛の長男・重盛、次男・基盛がすでに死して、清盛が逝去した時、宗盛が平氏一門のトップの座に。

 

クルマの往来が激しい国道8号から、雑草のしげる細い道をたどる。

「平氏終焉の地は壇ノ浦にあらず、ここ滋賀県野洲市である」…か。

2つの石塔が並んでいた。

どちらが宗盛で、どっちが清宗か。

周囲はあまり整備されていない。

線香を手向けた。

ドラマなどで宗盛の印象はまったくない。

 

壇ノ浦で自死せず捕縛され、義経が京から鎌倉へと護送した。

宗盛は頼朝に対面するも、出家したいなどとと命乞いをして失笑をかったという。

鎌倉・満福寺にて腰越状をしたため、頼朝との面会を切に願った義経は、ついに許されなかったのに。

あの満福寺に宗盛父子を伴っていたとは知らなかったなぁ。

 

「臆病者の宗盛」だったという。

壇ノ浦では、次々と海に入水して自決するのに、宗盛はオロオロ、家臣らがたまりかねて海へ突き落したという。

 

▼下関・赤間神宮から壇ノ浦を望む

▼赤間神宮内の「七盛塚」

 

ところが宗盛は水練が得手だったゆえ、沈まず。

結局海から引き上げられ命は助かり、捕縛された。

 

「平家物語」では、「侍ども、あまりの心憂さに、(宗盛を)海へ突き入れ奉る……なまじひに究竟の水練にて、沈みもやり給わず」と。

宗盛に容赦ない。

究竟(きゅうきょう)の水練とは、皮肉か。

 

頼朝と対面出来なかった義経は、処分をせず突き返された宗盛父子を、再び京都に護送した。

頼朝は義経に宗盛父子を始末させようとしたのだろう。

これもまた、なんとも冷酷でずるい。

 

再びの戻り道の鏡の宿にて、義経は宗盛父子を討ち、首級にして京に晒した。

 

「臆病暗愚な宗盛」は、「清盛の傲慢」さより、平家の滅亡を早めた要因ともいうが。

 

ところで、直系の平氏2代目の重盛死して、平氏一門の総帥となるはずだった維盛、彼は壇ノ浦の合戦前に戦線を、平氏一門を外れていた。

維盛もまた…。

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