●信玄苦戦… 福与城の合戦 信州知られざる古戦場18 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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福与城の合戦

藤沢頼親Vs武田信玄

天文14(1545)年 4~6月

 

福与城は、南信濃・箕輪町の天竜川左岸の河岸段丘崖を利した城である。

戦国時代、地元の有力国衆・藤沢頼親によって、居館も兼ねた城砦として築かれた。

現在、土塁や空堀、主郭・二の丸郭址などが残っている。

 

福与城を東から遠望。その向こうに伊那平、中央アルプス

天文11(1542)年、頼親は高遠城主・高遠頼継とともに諏訪に侵攻してきた甲斐の武田信玄と戦ったが敗れ、武田に臣従した。

しかしその後、諏訪衆が武田方に反乱の動きなどを示すと頼親は武田を離反し、自らの福与城に拠った。

 

▼福与城の主郭

▼主郭から北郭・二の丸郭を望む

2年後武田方は杖突峠を越え、福与城へ押し寄せて来た。

両軍は伊那松島付近で交戦したが決着つかず、武田方は兵を引いた。

信玄は頼親がなかなかの戦巧者と知り、これを警戒したのだろう。

翌年自ら率先甲府を出陣、峠を越え伊那へ進軍してきた。

信濃侵攻を目論む信玄は、諏訪一帯をほぼ手中におさめ、次の狙いは伊那・南信濃だった。

それには刃向かう福与城の頼親をどうしても屈服させねばならない。

 

天文14(1545)年4月、信玄は頼親方の荒神山の城砦(辰野町)をまず攻め落とし、ここを攻撃の拠点・本陣として福与城攻撃を開始した。

武田方の本陣・荒神山(辰野町)から南を望むと、中央を南へ流れる天竜川に沿った伊那平が広く見渡せる。

福与城までの距離もおよそ8キロと間近である。

 

▼荒神山を南から望む。手前は天竜川

しかし福与城の城兵たちの反撃は激しく、武田方の有力将兵が討ち死するなど、きびしい攻城戦の様相を呈した。

 

「たやすく落とせんな…」

と信玄が思案している折、「敵の援軍・小笠原長時隊が北より進撃中!」の報が。

藤沢頼親は籠城するにあたり、義兄(頼親妻室は長時妹)の府中(松本)・林城主の小笠原長時に援軍を乞うていた。

 

それに応えた長時は、竜ケ崎城(辰野町宮所)に兵を進めここに陣を置き、北の背後から荒神山に迫った

 

さらに頼親は長時の実弟・鈴岡城(飯田市)主・小笠原信定にも南からの援軍を頼むと、その後信定は近隣の国衆を引き連れ北上、伊那あたりまで進軍してきた。

 

意気上がる頼親と福与城の城兵たち。

その兵数はおよそ千五百余だったが、両小笠原軍の南北からの来援は士気をおおいに高めた。

天竜川周辺での両軍のにらみ合い・小競り合いはしばらく続いた。

 

だが慎重な信玄があらかじめ相模の北条、駿河の今川に要請しておいた援軍が遠路はるばる伊那に到着すると信玄は即断した。

 

麾下の板垣信方隊に、

「援軍とともに竜ケ崎城をただちに急襲せよ!」

と命じたのだ。

急を突かれた長時勢はわずか一日でもろくも崩れ潰走した。

なんとも情けない貞時勢だった。

 

かくして戦局は一変、およそ50日にも及んだ攻防戦は長時勢が敗れ去り撤退すると福与の城兵の意気は消沈した

信定勢も兵を引き、ついに頼親は武田の和議に応じる形で降伏した。

 

人質として弟の権次郎を差し出し、自らも甲府へ。

 

信玄は頼親の首はとらなかったが、その後の頼親の動向はあまりはっきりしていない。

信玄に臣従後またも離反、一時は長時のもとに身を寄せ、信玄と戦ったともいわれるが…。

 

信玄と50日近く互角に渡り合った頼親、信玄も殺すに惜しい男と思ったのであろうか。

次の巻は、海野平の合戦

 

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