●若狭・越前・越中・越後を漂って余話あれこれ | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

若狭から越前、越中、そして越後へと漂う北陸路の旅。

銅像を見ながら追いながら、合間に立ち寄った史跡などのこぼれ話を。

しばしお付き合いくだされ。

 

●敦賀市の山間、新保の宿場街に武田耕雲斎陣所跡が。

 

およそ800人を率いて水戸からこの地まで進軍した天狗党なれど、越前・加賀藩兵に進路を封鎖され、ついに武装を解き降伏した。

耕雲斎と幕府側が最終の交渉の場がこの陣所だったという。

床の間などがよくそのまま残されていた。

陣屋内に、烈士を偲ぶ句が掲げられていた。

露草の 咲きし陣屋に 志士偲ぶ」か…。 

 

しかし交渉の結末は悲惨だった。

天狗党の主だった400人はすべて斬首刑。

  

水戸からここまでの進軍中、信州などで幕府軍と交戦したことなどが「反乱軍」と見なされたのだ。

 

天狗党の「尊皇攘夷」の素志に越前・加賀の藩士らも多くが心を寄せたというが。

なんと斬首の介錯人には、「あの桜田門外の事件の怨みを晴らさん!」と、彦根藩士が次々と名乗り出たという…、なんとも悲哀。

 

若狭から越前に入る道中の今庄の宿

昔ながらの宿場の情緒をよく残している。

 

そしてこの芭蕉句碑。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」

今庄宿あたり一帯にて1183年、木曽義仲方の北陸軍と平家軍が交戦した燧山(ひうちやま)の合戦

写真中央が燧山(火打山)。

義仲は出陣していなかったが木曽方が敗北、上洛をめざす義仲にとって厳しい敗戦となった。

その時の義仲の心情を詠んだといわれる芭蕉の句。

同じ句碑は、俱利伽羅峠にも立てられている。

芭蕉の義仲に寄せる心情は深かったのだろうか、近江・義仲寺にて義仲と並んで芭蕉は眠っている。

左の宝篋印塔墓が義仲墓、右端の石柱に囲まれた自然石墓塔が芭蕉墓。

●福井・北ノ庄城跡で、鬼柴田の銅像を拝顔。

というよりお市の方と三人の娘たちのかわいい像がお目当て。

柴田勝家像の表情が恐すぎ!

だからこそ、4人の女性像が一層やさしくなごやかにみえる。

 

●前田家の隆盛を今に顕実する越中・高岡の国宝・瑞龍寺

豪壮にして広大な構えは百万石のイメージがぴったり。

 

さらに瑞龍寺門前から1キロ続く長い参道。

利長像もりりしい。

その先の、前田利長の墓所も、あまりに立派にておどろき!

 

●実は、越前でのもう一つの目途は、越前大野城の、それからさらに山奥の大野市の歴史の里に立っているという悪源太義平像だったのだが。

ちょうど強風雨の天気予報にて、そのまま山道を信州に抜けようかとも計画していたのだが断念。

悪名高き?あの義平さんの像がまたなんでこんなところに?

また訪ねたい。

 

越後・糸魚川の海岸に、あの懐かしい響きの、安寿・厨子王の墓がきれいな花に囲まれていた。

現地の観光地図にて初めて存在を知る。

  

「♪あんじゅ 恋しや ほ~れやほい 

           厨子王 恋しや ほ~れやほい♬」

幼かったわての心にいまだ残っている絵本の唄。

またその地図には、「な、なにぃ? 村上義清の墓が!」

武田信玄を二度も破った村上義清は、信州・坂城町の英雄である。

現地の小学校校歌に歌われているほど。

「そうか、義清さんの墓所はここに…」

義清さんについてはまた後日。