「そのおももち、けしき、あたり匂い満ち」
「みる人ただならず」
「今昔見る中に、ためしもなき容顔美麗、尤も歎美するに足る」
ウーン、その人の容姿、たたずまいの賛美は古書にひきもきらず、あまりの美しさから「桜梅少将」と称されたという。
だれ! 誰や?
だれあろう、平家の公達、平少将維盛卿。
あの清盛の嫡子小松内大臣重盛の子、すなわち清盛の嫡孫。
なんと源氏びいきのあの九条兼実でさえ、「(維盛)、年少と言えども作法優美、人々感嘆」、「衆人の中、容顔第一」と!
あのイケメン・土方歳三も、これでは真っ青ではないか。
その維盛の墓所が伊勢の山中にあるという。
山中といっても三重県芸濃町。
カーナビでホイホイ、と思ったがどんどん人里離れて、クネクネ山道を。
おいおいどこまで行くんだ?
昔から義仲、義経の源氏びいきだった私の平維盛のイメージは悪い。
富士川合戦で大敗潰走した平家の総大将。
祖父・清盛は激怒して入京を禁じたという。
さらに、あの俱利伽羅峠合戦でも、義仲軍に大敗した総大将。
小松少将とはいうものの、暗愚にして、ひ弱で弱虫…。
まさかこんなに美男子、容顔美麗とはまったく知らなかった。
大河ドラマ「平家物語」や「清盛」にも登場していたというが、記憶にない。
だがかつて富士宮市の田んぼの中にその墓所を見たころから、維盛のことをあれこれ思うようになった。
……維盛が開基したという岩間山成覚寺は「秘境」の地のごとくだった。
伊勢・亀山市からの道はクルマ少なく、成覚寺周辺も人影はほとんどなく。
道すがら見た、深い錦秋の見事さが何かもったいないような。
成覚寺は高台に立つこじんまりした古刹だった。
銀杏が鮮やかに色づき、緑濃い槙木の垣根に囲まれていた。
「たしか維盛さんは、一の谷敗戦で戦陣を離脱、屋島へ行かず高野山へ向かい出家したとか…」
「ええ、那智の沖で入水自殺ともいわれてます…」
と、住職は語り始めた。
……当山に伝わる話では、維盛は高野山・熊野とさまよい、家臣31人はてんでんに逃れ、この地で落ち合った。
維盛は所持していた平家念持仏をここに安置、草庵を開基したという。
よってか、この一帯は落合姓がほとんどという。
「もしかして、ご住職は、小松さん?」
「はい」
信州・長谷村の平家落人の里の人々は、ほとんどが小松姓だった。
そして茨城県城里町に訪ねた維盛の父・重盛墓所の寺は小松寺だった。
小松寺は江戸時代に水戸家の保護もあった巨大寺院。
境内の一番奥のそのまた奥の高所に立つ重盛公墓所までの、苔むす石段また石段には泣けた(思い出しても泣ける)。
やっと着いた! その奥に。
さて、成覚寺に話を戻して。
「これが伝来の維盛卿木像、そして念持仏です」
むむむ、これか、これは容顔にしてイケメン…。
念持仏の金箔は輝いていた。
本堂内の透かし彫り欄間彫刻もまた見事。
境内の本堂裏手に、維盛卿の墓がひっそりとあった。
「平家物語」では27歳没だが、この地にて53歳で亡くなったという。
維盛さんの墓所は、高野山十津川村にもあるという。
いずれ墓参に行かねば。
一の谷で散った敦盛。
壇ノ浦で錨とともに入水した知盛。
義経に斬られた宗盛、そして忠度、重衡…。
平家武将の末路は哀愁を帯びる。
昔は平氏の武将のことなど考えもしなかったが。
歴史をたどっていけば、奥が深いというか、なんというか。
再び深い秋に覆われていた道を下った。
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山県昌景 渡辺金太夫照 武田勝頼 織田信忠 二木重高
小笠原貞慶 芋川親正 薄田兼相(岩見重太郎) 戸田康長
山村良勝 石川康長 小笠原忠真 鈴木伊織 恩田民親
藤田小四郎 高杉晋作 山岡鉄舟
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