元寇防塁 : 鎌倉幕府が築かせた20kmの巨大防壁

元寇防塁は、その名の通り、元寇の再来に備えて鎌倉幕府が九州の御家人たちに命じて築かせた巨大防壁。1274年 元軍3万が日本侵攻(文永の役)、対馬・壱岐を占領し博多西岸まで上陸したものの、少弐景資・竹崎季長らの活躍により撃退に成功した。鎌倉幕府は元軍の再来に備え、博多湾岸に計20kmもの石塁を設けた。1281年 元軍14万が再来(弘安の役)したが、元軍の足並みが揃わず、また防塁と日本側の総攻撃などが功を奏し元軍は追い込まれ、最後は台風が襲来し元軍は壊滅した。現在はほぼ地中に埋もれており、発掘または復元された石塁が点在、それらの一部は国指定史跡となっている。なお石塁は本来の呼称は「石築地(いしついじ)」で、元寇防塁は明治時代の考古学者の命名。また元寇も当時は「蒙古襲来」などと呼ばれていた。

<基本データ>
●名称:元寇防塁 (Wikipedia)
●所在:福岡県福岡市 (地図)
●城主:鎌倉幕府
●築城:1276年(建治2年)
●遺構:石塁、土塁
●時間:2時間 (1645−1845) / 4箇所

訪問時期:2019年6月


<訪問記>

750年も前に鎌倉幕府の御家人らによって積み上げられた元寇防塁(石築地)。長らく土に埋もれていたものが発掘され復元されている。今回は未訪問だが 元寇敗走時に残していったと言われる元の武具や甲冑などが展示されている元寇史料館なる場所もあるという。今津地区などとともに、次回はそれらも訪れてみたい。

訪問時期:2019年6月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm

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元寇防塁 : 鎌倉幕府が築かせた20kmの巨大防壁” への2件のフィードバック

  1. 750年も昔人々の叡智で築かれた石築堤防その5年前の壱岐等の島民皆惨殺の怖さで作られたとその歴史の痛々しさが偲ばれる。古人の腹からの魂胆が偲ばれる。もっと訪ねたいので生き方の説明も欲しいものです。

    1. 「生き方」は「行き方」の誤字でしょうか。今回訪ねた生の松原地区・西新地区ともによく整備されていて案内板もあり、前調べが十分で無くとも容易に辿り着けるかと思います。ぜひ現地を訪れて当時の人々の想いを想像してみてください。

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