KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

私はこの子たちに何が残せるか

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 先日12月1日に姪っ子が産まれました。妹の子です。2825グラム。母子ともに健康。妹は私の6つ下なので41歳。つまりは恥かきっ子というヤツですね。さいきんあまり言わないか。

 

 この子の上に女の子と男の子が一人ずついて、弟にも男の子が2人います。それでもって弟の奥さんのお腹にもいて、来年春に出産予定となっております。私はこの子たちの成長を、せめて成人になるまで見届けたいとねがっていますので、あと20年健康に気をつけて生きていかねばなりません。

 

 理想とすれば、この写真の姪っ子の結婚式に出席して、よかったほんとうによかったとしみじみして目を閉じたらそのまま死んでいたというのが理想です。迷惑ですね。やめましょう。

 

 自分はこの子たちに何が残せるか?この問いは哲学を学ぶうえでの大きなテーマになります。世代間倫理という哲学全般から独立した、倫理学という分野のひとつになります。

 

 私が学んでいる日本大学文理学部哲学専攻においても、倫理学は哲学・宗教学とならんで究めなければならない科目です。現代の倫理学は大きく3つにわけられます。

 

 「善」や「悪」などの意味を論理的に考えるメタ倫理、どのような行いが倫理的なのかその基準を探求する規範倫理、そしてメタ倫理と規範倫理を現代の諸問題について応用する応用倫理。世代間倫理というのは応用倫理のなかのひとつです。

 

 なにがいいたいのかというと、”どうせ死ぬのだから後のことは知ったこっちゃない”というのは、世代間倫理に反するのです。環境について例にとれば、後のことを考えず無尽蔵にエネルギーを消費するのはダメなのです。資源には限りがあるのですから。

 

 常にニンゲンは”私はこの子たちに何が残せるか”というのを考えて生きていかなければならないのです。この子にやがてできるであろう生まれてくる子にも。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。

 

参考文献( ちなみに江川晃先生は私が大学で習っている先生です)

生命倫理について考える (AN研究シリーズ)

生命倫理について考える (AN研究シリーズ)