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『枝野幸男の真価』毎日新聞取材班ー立憲民主党は政治の〈新章〉を開けるのか

2017年9月25日安部首相は突然衆議院議員の解散を表明する記者会見を行いました。衆議院議員の解散権を持っている総理がいつ解散に打って出るか分からない中、民進内も緊張していましたが、民進党の党首選で前原誠司と枝野幸男が代表権争いをして、枝野が敗れ、いろいろないきさつの中党内人事が決まったばかりの時でした。

小池百合子都知事は人気絶頂の中で、新党(希望の党)を立ち上げ、民進党の右派の細野他数名が離党をしてそこに加わっていました。

その当時の民進党は、バラバラ間が強く、私にすれば選挙になっても投票するところがなくなったと感じていましたし、そのように感じている人もかなりいたのではないかと感じていました。

そのような中、立憲民主党を枝野が立ち上げ、野党第一党になるまでを、毎日新聞社の政治記者が様々な分野から書いています。

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『枝野幸男の真価』のあらすじと感想

その直後の世論調査で、希望の党は18%の支持率を得ており、民進党は8%でした。

9月26日前原は日本労働組合連合会の神津理季生会長とともに小池のもとにに向かったといいます。

9月29日衆議院議員が解散され、その直後の午後1時過ぎから民進党の両院議員総会が始まり、前原は自信に満ちた表情で、民進党からは公認内定は取り消し、「民進党からの立候補予定者は「希望の党」に公認申請することとし、「希望の党」との交渉および当分の党務は一任することと言う説明に、一部「民進党候補」としての立候補は出来ないかとの要望があったが、満場一致で可決されたということです。

私たち有権者が感じていた以上に国会議員にも民進党からの立候補には不安があったのでしょう。

その後、民進党の議員がすべて立候補できるわけではないことが分かります。

記者会見での小池氏の「排除します」の一言で、民進党議員はもちろん、国民からの支持も急激に減り、排除リストなるものも出回り、日本中が騒然となり、希望の当支持は急激にしぼみました。

民進党議員で、迷っていた人は無所属で出ることに決めた人が出始め、枝野も無所属を考えていましたが、ネット上からの「枝野たて」の応援と推薦をもらえないだろう人のことを考えて、悩みに悩んだ末に一人で立憲民主党立ち上げの記者会見に臨みました。

ギリギリの日程だったが、いろいろな人の応援により、78人の公認候補を出すことになります。

短期間で新党を作れた裏には、枝野たちと平衡して動いていた赤松広隆率いる「サンクチュアリ」も新党を視野に動いていました。リベラル系であり、排除の対象になりそうな議員が多く、それが枝野の立ち上げの動きも繋がったことが幸運だったようです。

やはり、リベラルの政治をもとめていた人はかなりの割合いたのだと思います。

立ち上げと同時に街頭演説会には今まで見たことのないような人が集まり、日に日に勢いを増していきました。

一方の希望の党は立ち上げたときの勢いは日に日に勢いがなくなって最終的には当選者が数人の差で立憲民主党が野党第一党になったのです。

森友・加計問題など、安倍政権のお友達優遇政策などで国会がもめても、少数野党のため、与党のやりたい放題の政策だったが、野党の分裂騒動、希望が伸びなかったことなどで、結局は与党の勝利を許してしまうことになってしまいました。

纏まりきれない野党でしたが、それが分裂した形で選挙が終わりましたが、立憲民主党と希望の党には溝が出来てしまいましたが、支持者もことごとくふんだんしてしまい、もとには戻れない状態を作ってしまいました。

そして、参議院議員は民進党として残っており、難しい舵取りを迫られながら、今に至っていますが、この本には17年までのことが書かれています。

枝野幸男のという政治家が歩んできた道

1964年5月31日、栃木県宇都宮のサラリーマン家庭に生まれ、祖父が政治の神様尾崎行雄のファンだったことから、幸男と名付ける(行雄)でなかったのは縁起の良い画数にしたからとのことです。

中学時代の夢は総理大臣、県立宇都宮高校から東北大学にと進み、弁護士になります。弁護士生活二年目に元熊本県知事の細川護熙1992年に結成した「日本新党」に候補者を公募していたのを知り公募、1993年に公募に合格、縁もゆかりもない埼玉5区が割り当てられました。

2ヶ月後宮沢内閣の不信任案が可決され、いきなり選挙選になり、選挙スタッフは知人や友人がボランティアとして担ってくれ、資金は党からの公認料とカンパでまかない、選挙運動はひたすら街頭演説を重ねることでした。

中学、高校の合唱部で本格的な発声法を身につけていたことが、選挙運動で役に立ち、中選挙区で2位当選。その時の同期に参議院議員から鞍替えした小池百合子、前原誠司、野田佳彦がいました。安倍総理も自民党から初当選していました。

このとき自民党は過半数を割り込み、日本新党を含む「非自民、非共産」の政党が一つに纏まったことで、細川を総理とする連立政権が誕生しました。「55年体制」下で一貫して政権予党であり続けた自民党が野党に転落します。

枝野は新人議員から与党議員としてスタートすることになったのです。しかし内部分裂で、細川は8ヶ月で辞任、後を継いだ羽田も2ヶ月で崩壊、同年6月自民党は選挙を経ずに政権に復帰、社会党と連立を組み世間を驚かせました。

日本新党の議員は小沢、羽田が率いる新生党と武村正義が率いる新党さきがけに近い議員にわかれ、枝野は前原とともに新党さきがけに移りました。

私は薬害エイズ問題で当時厚相だった菅がテレビで、被害者に頭を下げた瞬間は、今でも記憶にノッコっていますが、それに枝野が絡んでおり、菅が政調会長、枝野が政調会長の時。菅が座長、枝野が事務局長としてプッロジュクトチームを立ち上げていたことは知りませんでした。枝野は国民のためにこの若さで働いていたようです。

村山首相が退陣、橋本龍太郎が総理に就任したとき、菅が厚相になり、1ヶ月の期限を切って文書で調査を命じたということです。その結果ないと言っていた資料が省内のロッカーからはっけんされ、裁判に持ち込み勝訴を勝ち取ることが出来ました。

新人時代は与党議員として過ごし大きな経験を積んだが2009年の政権後退の選挙までの13年間に渡り野党暮らしになります。

その後、民社、さきがけが存続したまま、民主党が結成され、代表になった菅に1年後の1997年政調会長に抜擢されました。野党第2党とはいえ33歳の政調会長は異例だったようです。

この年の暮れ民進党が突然解党し、新進党に属していた議員を吸収した状態で民主党は野党第1党となります。

2009年民主党が政権を取り鳩山内閣が誕生、副総理だった菅が総理になります。その時、官房長官だった仙谷の問責決議案が可決された後、枝野が官房長官になります。46歳での官房長官は現行制度化で最年少でした。

官房長官になって間もない2011年3月11日、東日本大震災が起き、津波は東京電力福島原発を襲い東電からの協力も限られ、初めての出来事に官邸は右往左往する有様でした。

東電は何かと隠すことが多かったため、今になって分かったことも多く、叩かれてばかりいた民主党政権の不手際も今になって分かってきたこともあり、その努力を見直す人達も出てきています。

その後、野田が総理になり、小沢が消費税増税に反対して出て行き、解散総選挙で安倍政権に譲ることになり、今に続いています。

その後、民主党は維新の党と合弁民進党になりましたが、寄り合い所帯のためまとまりを欠いたまま、希望の党、立憲民主党と分裂をすることになったのです。

そのまとまりのなさは今に続き、問題山積みの自民党に勝たせ続けるという状態が続いています。

やりたい放題の安倍内閣は、お友達優遇政策、法すれすれの政治を続けていますが、少数野党はまとまりを欠いたまま、8年近く勝つことが出来ない状態が続いています。

今、野党が纏まり、政権後退を望まれていますが、その方法は野党第1党の枝野の肩に掛かっています。

まとめ

『枝野幸男の真価』をよんだ感想を書いていますが、かなり私情を入れていることになっていると思います。

明日も見えない状態の中で、衆議院選挙でどのようになるか日本は闇の中にいるような思いがします。

世界的に新自由主義が進んで貧富の差が大きくなっている中、少子高齢化が世界に先駆けて進んでいる日本で、少しでも貧富のない、福祉国家になることを願いながら私は政治の行方を興味深く見つめています。

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