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『猫を棄てる』村上春樹著ー父親について語るとき

私は村上春樹の本を読み始めたのはかなり遅く、ここ数年前からです。

しかし、私にとってはどこか気になる作家であったことから、その後かなりの長編小説も含めて10数篇は読むことになりました。

ほとんど発売時期とは関係のない本を行ったり来たりしながら読み、『猫を棄てる』で初めて最新小説を読むことになりました。

『猫を棄てる』は2020年2月に発売されたので、著者は70歳くらいになっていたのだろうと思います。

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『猫を棄てる』のあらすじと感想

今までは発売されてからかなりの年月が過ぎていた本を読んでいたので、初めて新刊本を読むことになりました。

古い本でも、なるべく単行本の古本を探して購入して読むことにしていたので、村上春樹の本がどのような形で発売されたかはおおよそ分かっていましたが、『猫を棄てる』は今までにないくらい薄い単行本でしたが、私はこのような本もかなり好きです。

読書は好きですが、その時々によりかなり偏った分野の本を読んできましたが、背表紙を見るのが好きで、背表紙が気に入り購入してきた本はだいたい裏切られていません。

現在はネット購入が多いので、ネットで見て購入するので、背表紙を見ると言うことはありませんが、読む前から気に入るだろうと言う予感はありました。

『猫を棄てる』のあらすじ

国語教師で読書家で、短歌を好んだ優秀な父親と結婚するまでは教師をしていた母親の一人息子として生まれた村上春樹が18歳で家を出るまでのあいだを私小説のように書いています。

小学二年生くらいの春樹少年が記憶の中で父親の自転車の後ろに箱にいれた猫をもって海岸まで棄てに行った記憶から書き起こされています。

誰もが幼い頃の記憶が絵のように蘇ってくる場面が持っていると思うが、詳しいいきさつまでは覚えていないということは誰にでもありますが、そのような書き方になっています。

猫を棄ててまっすぐに帰ってきたのだが、玄関を入るとその猫に迎えられてそのまま飼うことになったと言うことらしい。その時の呆然とした父の顔が、感心した顔に変わり、最後にほっとし顔になったのも覚えているようです。

また父が、ガラスのケースに入った菩薩を前に毎日おつとめと呼んでお経唱えていたことをよく覚えているといいます。一度その理由を聞いたことがあるが、戦争で亡くなった仲間の兵や当時は敵だった中国の人のためだと答えたということです。

著者の父は大正6年生まれと書いてあるが、私の父も同じ年代に生まれているので、同じような戦争体験をしているのだろうと思うし、招集されて中国に行っていたこと、帰ってきて太平洋戦争にも召集されたようだが、私は父からは何も聞いたことがないし、私からも聞かなかったので、その時代の父が思ったこと、経験してきたことは何も知らないままに父を亡くしてしまったことに気付かされますいた。

私が女の子だったから、言わなかったのか今になっては知るすべがありませんが、戦後の平凡な時代を生きてきた私にはそれがすべてであり、自分のしたいことにかまけて父がどのような生き方をしてきたかなど興味を持たないままに成長してしまいました。

父が経験した戦争ですら、人ごとのように歴史の本から学び、父に尋ねることもなかったということを、後悔のような思いで読むことになりました。

しかし、父親がいたとしてもたぶん聞きたくなかっただろうし、父も私には話さなかっただろうという思いもあります。性格にもよるのだろうが父はあまり話をする人ではなかったので、何の疑問も持たず成長してしまいました。

著者は数回父から聞かされたことがあるようだが、父がどのような戦争体験をしたか、かなり調べて書いていることから、私の父も中国のどこかでそのような体験をしていたのかもしれないという思いにさせられました。

著者の父は京都の浄土宗の安養寺住職の子供として生まれ、幼少の頃奈良のお寺に小僧として出されたが、なじめず戻ってきたという経験があるようで、それが幼少時の傷として残っていたようだと書いています。

著者の父親はとても優秀な人で、仏教系の西山専門学校を優秀な成績で卒業し、京都帝国大学に入学し、卒業しています。学問の好きな人で、家には沢山の本があり、それを著者は幼少の頃より読んでいたようです。

しかし、勉強に興味のない著者は、父親ほどには勉学に励まなかったことが、父にとっては物足りなかったのだろうと思うと書いています。自分が出来なかった人生を僕に歩んでほしかったのだろうと書きます。

そのような期待を背負うことになった著者は、父の期待に応えることが出来なかった。自分の好きなことには熱中できたが学校の勉強は画一的で抑圧的だと書くようにほとんど興味が持てなかったと言います。

親の期待に応えようと頑張る子供がいる反面、自我の強い少年だったろう著者は親との関係が冷え切っていったようです。

大学に行って、若い頃に結婚して仕事をするようになった頃にはかなり冷え切ったものになったいたということです。20年も逢うこともなかったと書いています。

著者の小説の中にも、大学時代から休みになっても家に帰らないということが良く書かれています。

小説を書くようになったときは喜んでくれたと言うことですが、その後もあまり会うこともなく、父が90歳で癌と糖尿病で入院しているところに訪ねて和解のようなことをしたと書いています。

母には音楽教師をしていた許嫁がいたが戦争で亡くなり、何かの縁で父と結婚したことで僕が生まれたという現実を考えるととても不思議な気がすると書きます。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、その雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはいけないだろう。たとえそれがどこかにあっさりとと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。

著者が縁側に座ると、白い小さな子猫が、勇敢さ、機敏さを自慢するみたいに、大きな松の木に登っていくのをぼんやりと眺めていると、猫は見えないくらい高いところまで登って行き姿を消したが、降りられなくなったのか助けを求めるような声で鳴き始めました。

父を呼んできてもはしごも届かないようなところでどうしようもないまま日が暮れてしまい、次の日の朝に呼んでも泣き声もなく、その猫が木の上で饑えて死んでしまったのかという思いを今も持っているという。

それは、登ることに比べて降りることの難しさを、著者に教えてくれたと書いています。

庭に生えていた高い松の木の高い枝の上で白骨になりながら、消え損なった記憶のようにまだそこにしっかりとしがみついているかもしれない子猫のことを思う。そして死について考え、はるかしたの、目も眩むような地上に向かって垂直に降りていくことの難しさについて思いを巡らす。

『猫を棄てる』の感想

著者も書いているように肉親、特に親について書くと言うことはかなり難しいのだろうと思います。

そのような思いで読んだとき、『猫を棄てる』から私はかなり多くの示唆をを感じるし、肉親というものについてのかなり深いところを短い文章で書いていてとても良い本だと思いました。

私の両親も亡くなって何も確かめることが出来ませんが、所詮一個の人間として、私にとっても分からないことばかりだし、若い頃は親についていろいろと想像したり、思ったりすることもなく自分の生きたいように生きてきたと思っています。

それでも、何かをしたいときに反対され、悔し涙を流して我慢したこともあります。

そして今、私自身が子の親となって親の立場から自分の子供について考えることも多くなっています。

この本を読みながら考えたことは、親を思うこと以上に、著者が語りかけていることは、私が親として子供に語られているのではないかという思いで読まざるを得ませんでした。

離れて生活していますが、子供とそれほど疎遠にしているわけでもなく、普通の母娘のように暮らしているが、戦争などと言う出来事があったわけでもない社会においてさえ、子供が考えていることはほとんど見えないというのが現実です。

それでも、一緒に暮らしていたときは何もなかったとは言い切れないものを持っていました。私が母親であり、娘と言うことは、父と息子というのとは違っていたかもしれませんが、同性だからと言うことはかなり関係があると思います。

そして、我々はどちらも、性格的にかなり強固なものを持っていたのだと思う。お互い、そう易々とは自分というものを譲らなかったと言うことだ。

と書いているのを読んだとき、子供を育てることの大変さ、しかしそれを乗り越えることで、子供は大きく育っていくのだという思いを抱かざるを得ませんでした。

私たちが、ほんの偶然で結婚し生まれたのが子供であると思うとき、著者の、「一人の平凡な人間の、一人の平凡な息子に過ぎないという事実だ」と書いていることに、今生きているという現実を見いだしています。

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