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大海龍王は海神で、アワビを使い難を救う神であると伝わり、表米宿禰命の子孫である日下部氏の一族の中には、現在もアワビを食べない風習が残っているといわれている。(朝来市教育委員会より)
枚田内高山の麓にあり
どんどん上がっていくと
楼門が見えてきました
この美しい楼門は
神宮司であった旧神渕寺の山門
文政13年(1830)神渕寺23世住持尭詮の時に再建
丹波柏原の彫刻師の中井権次による見事な彫刻あり
2階には高欄を巡らせ内部には大般若経が納められていました
(くぐると除疫福徳の効あり)
次に随身門をくぐって
驚くことに
その先には
勅使門がありました
扉には鳳凰の透かし彫りの彫刻
近づくほどに美しさが増していきます
1799年(寛政11年)神渕寺21世住持祐照の時再建
彫刻は丹波柏原の中井丈五郎と久須善兵衛によるもの
さらに一段あがって本殿
社伝によると継体天皇25年(507)創建
室町時代初期に本殿が建てられ
天正2年(1574)八木城主の八木豊信により社殿を再建
御祭神は但馬日下部氏の祖先神である赤淵足尼神(あかぶちそこひしん)・大海龍王神(だいかいりゅうおうしん)・表米宿禰神(ひょうまいすくねしん・但馬大領)の3柱で、大海龍王は海神でアワビを使い難を救う神
大化元年(645)表米宿彌命が、丹後白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した際、沈没しかけた船が、海中から浮かび上がった無数のアワビに助けられたため、表米宿禰命の子孫である日下部氏の一族の中には、現在もアワビを食べない風習が残っているといわれています
摂社も多く
しだれ桜が綺麗
後ろから見た勅使門です
とてもいい神社にお参りできました
さてふたたび
国道312号線へ戻って北上
御祭神は但馬・日下部氏の祖先神である赤淵足尼神(あかぶちそこひしん)・大海龍王神(だいかいりゅうおうしん)・表米宿禰神(ひょうまいすくねしん)の3柱を祀る。本殿は規模の大きな三間社流造の杮葺で、古い三間社流造の様式を残している。建立年代ははっきりとしないが、建築様式・手法から室町時代前期のものと推測されている。但馬に多い笈形式妻飾りの先駆的建築物である。向拝に修理の跡が見られるが、ほとんど当時のまま。1992年(平成4)には文化庁の補助により、「平成の大修理」と言われる本殿と履屋おおいやの大改修が完了した。
山名四天王と言われた室町から戦国期の武将八木氏代々の崇敬は篤く、本殿・門・庇ひさしなどは1648年(正保5)に旗本となった八木宗直の子、八木勘十郎宗職が大願主となって再建し、その後、何度も修繕が行われている。四脚門様式で、材質は欅けやき。
また、お堂には、赤淵神社の別当寺であった神淵(しんねん)寺の本尊・阿弥陀如来坐像が安置されている。古風でありながら写実的な新しさがあり、耳の形から鎌倉時代の作と言われている。なた彫りと言われる荒々しいノミの跡を残した、毘沙門天立像も神淵寺から移されたもの。https://the-tajima.com/spot/54/(但馬辞典より)
社殿は三間社流造、こけら葺、桁行4.8m、梁間3.1m正面と両側面に高欄付縁をめぐらせている。
身舎内部は内陣と外陣に分かれ、正面に格子をはめ、中央には階段を設けている。改修のあとはあるが、蟇股、懸魚、妻窓などに当時の建築様式を残している。(朝来市教育委員会より)
この日は偶然にも「お城まつり」で
街中は賑わっていました
駅近くの「情報館天空の城」
おまつりなので駐車はできませんでした
さらに進むとJR竹田駅(播但線)
古民家のような駅舎です
天空バスは
竹田城の登山口まで行くバスです
地図もあります
駅舎に入ると
まぁなんて素敵!
改札口から山頂をのぞいてみました
わずかに石垣が見えます
もうちょっと見えたらと
竹田城址がみえるスポットへ移動しましたが
ちょっとわかりづらいですね
やっぱりちゃんと登山せねば・・
おまつりで賑わう竹田城下を後にして
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国道312号線をさらに北上です
嘉吉年間(1443年頃)但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりと伝わる。天正8年(1580)羽柴秀吉の但馬攻めにより竹田城は落城。
その後、羽柴秀長(城代)・桑山重晴と城主が続き、天正13年(1585)播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2万石(その後2万2千石)で入城。現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備されたと考えられます。関ヶ原の役で赤松広秀は西軍から東軍に加わるも廃城。
元和1年(1615 )生野代官所の支配下に置かれる。
レトロな旧生野鉱山職員宿舎の前を
通り過ぎます
ここは日本で最初に建てられた社宅
志村喬記念館とあるのは
俳優の志村喬さんが
子どもの頃にこの社宅に住んでおられたからで
大正時代の社宅の様子が復元されています
他にも見どころはあるのですが
そのまま通過して
生野銀山への矢印に従って
市川を渡り
まっすぐ進むと
美しいしだれ桜の並木があり
銀山の門に到着しました
鉱山は入場料1000円
約1km歩き40分くらいかかるとのことで
今回は入らずでした
大同2年(807)銀が出たと伝えられ
天文11年(1542)但馬守護職・山名祐豊が開鉱
永禄10年(1567)自然銀を多く含む日本最大の鉱脈
織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て
慶長5年(1600)徳川家康が但馬金銀山奉行を配置
享保元年(1716)「生野代官所」が置かれ
吉宗の頃に最盛期を迎え月産150貫(約562kg)の銀を産出
明治元年(1868)日本初の官営鉱山(政府直轄)
明治22年(1889)皇室財産に移され宮内省御料局の所管となる
明治29年(1896)三菱合資会社に払い下げられる
昭和48年(1973)に閉山
坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種にも及ぶ(HPより)
生野銀山文化ミュージアムは
平成23年(2011)開業
門柱に菊の御紋があるのは
皇室の財産だったなごりですね
現在も三菱マテリアル生野事業所があります
口銀谷まで戻ってきました
また来ることがあれば
ゆっくり散策したいと思います
ここからさらに
国道312号線を北上しました
生野銀山は大同2年(807年)に銀が出たと伝えられる。室町年間の天文11年(1542年)には但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀石を掘り出し、開坑の起源といわれている。永禄10年(1567年)には自然銀を多く含む日本最大の鉱脈(慶寿ひ)が見つかる(銀山旧記には、“銀の出ること土砂のごとし”と記されている)。
その後、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置、佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきた。
享保元年(1716年)には「生野代官所」が置かれ、やがて生野銀山は第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。
明治元年(1868年)には日本初の官営鉱山(政府直轄)となった。
治22年(1889年)には生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となった。
明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、以後、三菱の経営で国内有数の大鉱山として稼働してきたが、昭和48年(1973年)に閉山した。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいる。
昭和49年(1974年)に観光施設として史跡・生野銀山が開業した。
神苑ぼたん庭も
ちょうど春牡丹の時期で
入ってみました
綺麗です
ゴージャス
蕾までも可憐
黄色は初めて見ました
建屋はお茶室でしょうか
桜も咲いています
この不思議な細い岩は
石筍(せきじゅん)というのだそうです
中国の石のようで
竹林に配され筍に見立てるようです