昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

せからしか! (十六)

2020-02-18 08:00:57 | 小説
舟の櫓の幅がどの程度のものだったか、子どもの手には余るほどだったと思う。
厚みにしても数センチはあったろうと思うし、その表面はぬるぬるとしており、まともに掴もうとしても中々簡単なことではない。

 もう一度捕まえるべく手を動かすと、舟が少し動き私から離れた。
ほんの少しのことなのだが、それが何を意味するのか理解ができなかった。
捕まえやすい位置に動いたのかと思い、必死の思いで再度腕を伸ばして捕まえようとした。
しかしまた、少し舟が動いている。

 もうだめだ、いや、もう一度だ、やっぱりだめだ、でももう一度だ。
しかしなにをやっても、何度やっても櫓を掴むことはできない。
掴めなければ身体が沈んでいくしかない。
そんなことを何度繰り返したことか。
その間にも、体力がどんどん失われていく。
次第に、絶望感に襲われ始めた。

 諦めかけたとき、身体が静かに海の中に吸い込まれ始めたとき、なにやら足の裏に触れるものを感じた。
そして「もうすこしがんばって」という声が聞こえてきた。
そうだ。そう言えば、あの自動車事故のときにも聞こえた。
てっきり母の声だと思っていたが、今は傍に母は居ない。

(違うんだ、母ちゃんじゃなかったんだ。
そうか、ぼくはこのまま死んじゃうのか。
きっと天使なんだ、ぼくを迎えに来てくれたんだ)

(死ぬって、どんなことだろう。
いなくなるってことなんだろうな。
もう、父ちゃんにも母ちゃんにもあえなくなるんだ。
お兄ちゃんともあそべないんだ。
そうか、学校のみんなにもあえないんだ)

 そんな思いに囚われたとき、目の前にきれいなお姉さんが現れた。
静かな目で私をじっと見つめ、やさしく微笑んでくれた。
そしてもう一度「もうすこしがんばって」ということばが聞こえた。


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