織田信長の突然の退場は…
天下の政治状況に大きな空白を生じさせる結果を惹起しました
謀反人明智光秀にこれといって明確な政権構想があった訳ではなかったのですが…
仮に各地の戦線に派遣されていた織田家の諸将が、主君の変事を知ったとはいえ、直接対峙している敵方をそのままにして、直ちに都に戻ることは不可能でした
そうなると、畿内掌握と朝廷工作に動いていた光秀を利する可能性もあったのですが、中国路に遠征していた羽柴秀吉の電光石火の大帰しによって、光秀は瞬く間に屠られてしまったのです
但し、謀反人が討ち取られたとはいえ、天下人(信長)とその嫡男(信忠)はこの世から消え去ってしまったことは動かし難く、織田家首脳は今後の方向性を早急に打ち出さなければならない必要性に迫られていたのです
諸将達の帰還を受けて、今後の方針を決める会議が開催されることになったのですが、この大事な会議の場所が…
何故尾張国清洲と定められたのでしょうか
ところで織田家は、尾張守護斯波(しば)氏の家臣である守護代の家柄だったのですが、信長の属する織田家はそのさらに庶流の奉行を務める家の一つに過ぎませんでした
信長の祖父(信定)と父(信秀)の代で主家織田家を凌ぐばかりか、守護斯波家すらその保護下に置く程の勢力を有するに至り、信長の代に入って、守護代織田家を打倒してその居城である清洲に入城したのです
尾張在国時代の信長の拠点は清洲だったのですが、その後尾張小牧山・美濃岐阜(稲葉山)・近江安土と領国が西に拡大するに連れて、居城も西へと変遷したのです
すなわち天下人であるならば、京の都(畿内)の近い所に本拠を置くのは当然であり、そうした観点に基づくならば、天下人後継者を決める大事な会議は畿内の重要な場所(京都か畿内のどこか)で開かれるのが極めて穏当な考えだと思います
とはいっても、信長最後の本拠であった壮麗な天守閣を擁した安土城は明智討伐の余波に巻き込まれて焼失してしまい、何故か洛中で会議を行うという案は採用されず、結局織田家雄図の地である尾張国清洲が選ばれたのです
さて、この会議には決しなければならない多くの案件があったのですが、その最も最優先されるべきものは…
誰を信長父子の跡目に選ぶかという後継者議定でした
実は本能寺の変遡ること七年前、信長は織田家当主の座と織田家本国であった尾張・美濃二国を嫡男信忠に譲っていたのです
すなわち、織田領国の基幹をなす尾・濃二国の統治と軍事指揮権を家督と共に信忠に任せたのですが、信長が完全に表舞台から身を退いた訳ではなく、あくまでも織田領国の支配という狭義の織田家の一切権限を信忠に譲ったにすぎず、広義(公儀とも)の織田家という天下人(畿内統治権と天下統一戦争の指揮権)の職務に専念することを宣言したことの方が重要だと思われます
天下仕置(公)と織田家仕置(私)の分掌化とも言えるのですが、新たな織田家当主となった信忠もまた、天下人たる父の命令によって畿内・東国への統一戦争に参加(若しくは総大将として)しており、何れ天下人の座をも父から譲られることが確実視されていたでしょう
それ故、仮に信長が討たれても、織田家当主たる信忠が都を脱出していれば、後継者問題は起きなかったのですが、信忠は脱出よりも二条城に籠って抗戦する道を選択、戦死を遂げたのです
残された織田家のメンバー(信長の息子)で直ぐに天下人の任に堪え得る人材は見つからず、まずは狭義を優先して織田家の家督継承者を決めることになったと思われます
天下人どうこうよりも、早く織田家相続者を決めなければ織田家中は混乱・四分五裂状態になってしまい、それこそ収拾の余地がつかなくなるという危機感が漂っていたのでしょう
それ故織田家の故地たる尾張清洲を会議の場に選び、家中の再結束を図ろうとしたと考えられます
次回は織田家後継者候補について考えたいと思います