さてさて…
帰蝶(きちょう)の生年ですが、『美濃国諸旧記』(みののくにしょきゅうき)によれば、天文四年(1535)の誕生とされています
現時点では上記の史料以外に彼女の生年を記すものがなく、絶対間違いないとは言えないのですが、これ以外の説がない以上、一先ず天文四年説を採りたいと思います
因みに伴侶たる織田信長は一年前の天文三年(1534)であり、両者は一歳違いということになります
周知の通り、両者の父親である斎藤道三(どうさん)と尾張の織田信秀(おだのぶひで)は、激しい抗争を繰り広げていました
加えて、道三は主家で美濃国守護である土岐氏(ときし)と、一方の信秀もまた主筋にあたる尾張下四郡守護代家(おわりしもよんぐんしゅごけ)織田家と対立しており、両者共に領内の抵抗勢力にも頭を悩ませていたのです
美濃守護代家斎藤家の名跡を得た斎藤道三(当時は利政{としまさ})は、守護土岐家の内紛に乗じて、自己の勢力拡大に執心
天文十年(1541)頃、守護であった土岐頼芸(ときよりのり)を追放し、頼芸は息子頼次(よりつぐ)と共に尾張国に逃れました
これより前、頼芸は美濃守護職を巡り、兄頼武(よりたけ)やその息子である頼純(よりずみ)と長い争いを続けていました
主家の家督争いは臣下である美濃国衆を二分させることとなり、美濃国は戦乱のルツボと化していました
頼武には縁戚の越前朝倉氏(あさくらし)や南近江六角氏(ろっかくし)等の領外勢力が後ろ盾になっており、当初頼芸は不利に立たされていたのですが、道三は劣勢に立たされた彼を一貫して支えたため、抗争の行方は徐々に頼芸が優勢となっていました
結果的に、頼芸は守護職の座を射止めたのも束の間、天文九年{1540)に彼の弟頼満(よりみつ)が道三に謀殺されたたことが発端で、両者の関係は蜜月から対立へと変わって行きました
その結果が先述の追放劇であったのですが、このままでは収まらない頼芸は織田信秀に支援を要請予てより美濃進出を企図していた信秀は、その求めに応じて美濃出兵、さらに敵の敵は味方ということで、越前朝倉氏に身を寄せていた頼純も美濃へ攻め入りました
道三は織田勢を迎撃したのですが敗退居城の稲葉山城下が焼かれるという危機に瀕しました
流石に道三も、一度に織田・朝倉の強豪大名を相手にする不利を悟り、個別に和睦を結ぶことで虎口(ここう)を脱したのですが、美濃守護の座は、当時朝倉家当主であった孝景(たかかげ)の主張が通り、頼芸から頼純に移りました
さらに、両面和平という性格上、どちらにも良い顔をしなければならなかったため、道三は渋々頼芸・頼純両者の美濃復帰を認めたのです
ところで…
この両面和平の条件の中に、道三が苦慮する箇所があったのです
それは
朝倉方は新たに美濃守護となった頼純に、織田方は信秀嫡男信長(当時は吉法師)に道三の娘との縁組を求めていたのです…
道三には何人かの娘がいたみたいで(史料によって人数異同あり)、同時にニ家との輿入れを実施することも可能だった筈ですが、主家である土岐家当主には正室出生の娘でなければ釣り合わず、明智家から正室として迎えられた小見(おみ)の方出生の唯一の娘であった帰蝶が輿入れすることとなったと思われます
そうなると、吉法師との縁談はどうなったのかということになるのですが、まずは土岐家との関係修復が優先され、時間稼ぎ的に保留扱いになったのでしょう
通説によると、帰蝶は信長に嫁いだ時が初婚とされていたのですが、その前に土岐頼純の正室になった説もあり、今回の『麒麟がくる』では二回結婚説を採用しています(帰蝶の結婚は天文十五年頃とされています)
この時、帰蝶十二歳父道三にしてみれば、美濃簒奪に向けての布石の一つに過ぎず、事実、最初の結婚は僅か一年余で終わってしまうのです
本日はここまにでにします