天文二十一年(1552)、尾張の虎こと織田信秀は、享年四十二歳を以て世を去りました
暗雲漂いつつあった尾張を取り巻く内憂外患を憂慮しつつ、さぞかし心残りの臨終であったと推測されます
信秀の葬儀は萬松寺(ばんしょうじ)という古刹で盛大に執り行われました
尾張下守護代の三家老家の一つに過ぎなかった身から、事実上尾張の旗頭的な地位にまでのし上がった信秀の勢威を象徴するかの如く、三百人余りの僧侶が参集、読経を唱えたのでありますが、この葬儀の場でとんでもないことが起こったのです
葬儀が始まり、いよいよ焼香の段となったにも拘らず、喪主たる嫡男信長が一向に寺に現れなかったのです
織田一族や重臣の面々は、『やはり三郎殿は大うつけ殿だ』と眉を潜める中、痺れを切らした信秀未亡人の土田御前(どたごぜん)は弟信勝(のぶかつ)に喪主代行として焼香をさせようとしました
信勝が焼香を始めようと位牌に向かった時、漸く喪主信長は到着したのですが、その風体は…
泥だらけの着物と長い刀を引き摺る裸足姿で、つかかつかと斎場に押し入って来たのです
そして、無動作に香を鷲掴みにする刹那、なんと父信秀の位牌めがけて香を投げつけ、そのまま退席してしまったのです
あまりのことに一同は茫然自失の態で喪主を見送るばかりだったのです
喪主に非ざるハチャメチャな振る舞いを目の当たりにした織田家の面々は…
『これで織田家は終いだろう』 『三郎様では織田家は立ち行かねぬ』 『勘十郎信勝様こそが織田家を継ぐべきだ』
等々、当たりを憚らず言い出す始末でした
実際、織田家筆頭家老である林秀貞(はやしひでさだ)は、この段階で信長を見限っていたと思われ、信勝擁立を模索し始めていたと考えられます
信長が何故この様な奇行に奔ったのか彼の心情は勿論推し量れないのですが、自説を述べさせて頂くならば、誰よりも自分を理解し慈しんでくれた父に対して、彼なりの精一杯且つ不器用な愛情表現であったのではと思われます
とはいえ、信長の心の内は別として、あの様な振る舞いが白日のもとになった以上、織田家の行く末は危ぶまれるのは、正直致し方がないと思われます
林秀貞に限らず、信長に見切りをつけ、信勝を織田家家督に押し立てようとする一族・重臣層は少なからず、信秀死去から程なく、織田家内部は不穏な空気を醸し出していたのです
そうした中、翌天文二十二年(1553)閏一月(正式には二月)
信長の傅役で次席家老の座を占めていた平手政秀(ひらてまさひで)が突如自刃を遂げてしまったのです
本来なら真っ先に信長を支えて行かなければない政秀が、何故自ら命を絶ってしまったのでしょうか
続きは次回とさせて頂きます