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大師の愛を体感する旅

実はお休みをいただいて、夫婦で高野山へ行ってまいりました。少し前にお客さまからうかがって興味が出て調べるうちに、これはぜひとも行きたいと思い、思い切りました。ふもとではなく、お寺の宿坊に3泊しました。人に話すと、え?他にはどこも行かないの?と言われるので、どうやら少々変わったプランだったようですが。

 

本当に良くて良くて、滞在中からまた来たい、とリピート確定認定したほど。これを文章にするのが難しくて1週間寝かしましたが、やはり無理です。が、無理なりに少し書きます。

 

まず、泊まったのは大円院というお寺に2泊。3泊目に普門院です。宿坊と言えば昔、劇団時代に、長野のお寺に合宿して集中稽古をしたことがありました。よくもあんな体験させてもらったと時々思い出すのですが、その時は大広間で稽古し雑魚寝でしたが今回の宿坊は全然違って、簡素な旅館の泊まり心地。しかし随所に歴史と品格の重みを感じます。

 

お寺ならではのすばらしさの一つが、朝のお勤めです。

大円院のお勤めは朝5時50分から7時15分頃まで、役1時間半にわたります。僧侶のお経と講話、途中お焼香と最後にご本尊の阿弥陀如来を礼拝します。自由参加とのことですが、これを逃すわけがありません。3回とも出席いたしました。

 

大円院で、おそらく私と同世代の、副住職と思しき僧侶からのお話。

「時代が変わり環境が変わっても一つだけ1200年変わらないものがあります。それがこの、毎朝唱えるお経です。」

この一言から私が感じたのは、人が意志とからだを通じて寸分たがわず引き継いできたものの重みです。修行の意味を思いました。その行とは、自分を脇にどけて、自身の中心の座を神仏に明け渡すことのように思いました。

 

真理を純粋なまま運ぶ器へと自分を磨き清めるため、その修行は必要とされるのです。決して自分が高みに上るためでもなにかを極めるためでもなく、無為な器となり、内にある光が世を照らしやすくするよう自分が邪魔をしないこと。その光を保つことが、自分の身を捧げることの目的なのだ。そう感じました。

その目的は、神仏への愛、生きとし生けるものの背後にある神への愛だけのように思います。

 

もう一つ心に刺さった言葉がありました。

仏道は常に、人が誰かを思い供養する思いに根差しています。」

人が人を思う、体温のある愛を、そこに強く感じました。

 

旅への出発の直前、大好きなスリ・ダヤ・マタの著書「only love~愛だけが」のページを神託的にぱっと開いてそこにあったメッセージがまさに旅にリンクしていました。

大師の亡き後、教えをどのように引き継ぐべきか、師のパラマハンサ・ヨガナンダに尋ねると、「私亡き後、愛だけが、あなたがたを導くだろう」と師が答えるのです。

 

宿坊に着いて、お部屋のお掃除やお布団の上げ下げやお茶や食事の用意をすべて僧侶がしてくれているのになんとなく申し訳ないような気持ちがもたげていたとき、ふとこの一説を思い出しました。

 

すべての人の奥に神をみつけ、その神への愛を生きることこそが本当の修行なのではなかったか。僧侶が私たちのお世話を通してそれをみつけ行ってくださるのはそれもまたすばらしい行に違いない。そう思った瞬間、すべてはそれなのだ、という光が広がった思いがしました。

 

自分を探究するほどに、私たちは当たり前のことのなかに真理を見るようになります。あいさつや、買い物や、日常と言われるやり取りの中にも。

 

場所も時間も違えど、大師と呼ばれる人の役目はいつも自分という器を最大限に神に明け渡し、その愛に生きることなのだろうと、そしてその意志は、肉体を超えて生き続け、人の心を照らすものなのだということを、まざまざと見知った、そんな貴重な旅でした。


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