本当にわかっている人、と昨日書きました。その言葉の意味を少し掘り下げたいと思います。フェイスブックにいただいた共感のコメントが私にヒントを投げかけてくれたからです。
本当にわかっている人と私が感じるのは、ずばり「神を内側に見つけて直接体験した人」のことです。たくさん考えたあげく結局当たり前の現実に戻ってきたという意味でも、博識という意味でも、正しい人という意味でもありません。
そしてそれを知っている人の言葉には、言っている内容や言葉の示していること以上の計り知れない思いの深さ、強い愛を感じるという意味なのです。それは人の中の中心に触れ、そのほかのものを変えてしまうほどの力を持つのです。
私自身はたぶん、幼少の頃から、その部分に敏感だったように思います。この人が言っていることの真意はなにか、その奥にある心は何か、ということです。そしていくら言葉上正しかったとしても、何かが引っかかってその言葉を飲み込めないということがよくありました。
敬愛するスリ・ダヤ・マタの言葉を引用します。
「私たちは魂です。そして魂の本質は完全です。そのため、完全でないものに、完全に満足することはできないのです。」
この思いなのです。この世では完全主義は直さなければならないものの項目の一つです。なぜならこの世に表れているものの中に完全は絶対にないからです。
しかし芸術的、形而上学的な傾向のある人は常に完全を求めます。表現者が完全を求めるあまりこの世の現実から逃避するのはよくあることです。この世に完全な正義や美を求める人もそうでしょう。
突き詰めれば突き詰めるほど壁にぶつかります。周囲と摩擦を起こすことも多々あります。
完全なものがみつからないという恐れが消え去らない限り、平和はありえません。不完全である限り、いつか迫りくる敵に備えていなければなりません。それがこの世から戦争という現象がなくならない明確な理由なのです。どうせいつか襲われるのであれば、先に仕掛けてしまえばいいし、いつか裏切られるならそもそも仲良くする必要などないのです。
しかし完全主義は間違っていません。ただ求める矛先が違っていただけです。そもそも自分の中に完全があるというのに。
子供の頃の私が、周囲のおとなたちに求めた完全さ、公正さは常に裏切られました。そして私は長い間いろいろなものに失望し続けました。その失望はとことん私を疲弊させ続けていました。当然ながらなにより一番、自分自身に対して失望していたのです。
最近になって時々、こんなふうに言ってくださる方が現れます。
「やっぱりAZUさんは、選ばれた人なんです」「それはきっと、AZUさんだから、そうできたのではないかと思えます」
完全さを見つける前の私がどれだけそういう言葉を欲しかったことだろうと思います。この不完全な世界での希望とは、特別に光り輝いていることなのです。
しかし今の私は、私の中の光を見てくださる友人に深い友愛と喜びを感じるとともに、そのことはやはり違うのだと再認識するのです。
私が絶望から希望へと再生できたのは、私たちのすべてが不変の完全さの中にいるということを理解できたからなのです。特別や特例がないことこそが救いです。
その完全さの中にいるはずの友人が、自分だけはそこにいないと感じて苦しんでいる気持ちが私には本当によくわかります。それは自分の苦しみそのものだからです。
多くの求道者や芸術家たちが、人間の限界の壁を越えようと命をかけてきました。その思いを感じると胸がいっぱいになります。つい最近もセッションでそのお話をしました。
苦しみという幻想から目覚めるのは、自分のまんなかの最も優しく暖かい静かな場所に戻ったときです。苦しみの果てに見つけるのは「その向こうにあったもの」ではなく、疲れ果てたあげく「帰ってきたおうちにあったもの」です。
真の芸術家がその人生をかけて見せてくれるものとは、私たちを疑似体験によってより早くおうちに帰ることに気づかせてくれるものなのです。
「私たちは魂です。そして魂の本質は完全です。そのため、完全でないものに、完全に満足することはできないのです。
でも完全とはなにかを知ることができるのは、私たちの神を知った後なのです。」
(スリ・ダヤ・マタ)
そしてスリ・ダヤ・マタを勇気づけた言葉を、私自身とすべて同じ源を持つすべての友人に送りたいと思います。
「聖者とは、決してあきらめなかった罪人である」。