ストライキに危機感を持ったマッカーサー
マッカーサー声明で、2.1ゼネラルストライキは、中止することが出来ましたが、このlストライキが行われていたら、日本に共産党政権が誕生していたかもしれません。
そして、まもなく、マッカーサーは7月20日付で国鉄・専売公社【当時は、たばこ、樟脳・アルコール専売)を公社化するように指示を出します。それと同時に、公務員の争議権は、公社化される国鉄などを含めてスト権を剥奪されることとなりました。
実際、この頃一番勢いがあったのが官公労と呼ばれる公務員の組合であり、こうした組織のスト権を封じることはある意味当然と言えましょう。
マッカーサーの指示で国鉄誕生
さて、ここで再び国鉄はどうであったのかという点から見ていきたいと思います。
当時の記録を参照しますと、下記のように書かれています。
七月二十日付首相宛の書簡は主に労働問題に関連して、
- 1)鉄道、塩、樟脳、煙草等の事業に関しては一般の公務から除外せられてもよいこと、(might well be excepted)
- 2)但し此の際は特別の公企業体をつくるべきこと(In this event,however,public corporation should be estabikshed)
の二項が示されて、之に対する解釈として、1と2は関連して読むこと、即ち一般の公務から除外してもよいが、そうすればパブリック・コーポレーシヨンを作れと云うふくみのある言葉でのべられているので、鉄道の改組についてもその根本方針に関して色々議論があった。
引用 交通 昭和23年10月号から引用
この書簡を元に国鉄は誕生するわけですが、ただ、日本では全くこのような新しい形態は見当がつかず、色々尋ねて回った結果、アメリカの、テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority、略称: TVA)を参考になろうということで、国鉄もそれに沿った形でせいびされることとなりました。
なお、国鉄は運輸省から分離というか、運輸省引き続き外局に近い扱いとなり、制度的には運輸省が国鉄を監督する形でしたが、国鉄と運輸省が並列し、運輸省が海陸空の交通機関を所管する官庁であるにもかかわらず、国鉄に対しては独自の基準が適用されるなど、かなり異なった扱いをされていました。
当初は、昭和24年4月からの発足を予定していたのですが法令等の準備が整わなかったことから、6月1日に発足しています。
国鉄発足時は、運輸省の鉄道部門がそのまま分離したというよりも、鉄道省から、運輸省が分離するような形となり、長らく運輸省は、国鉄本社に間借りしていました。
国鉄が、鉄道省時代には持っていた陸上自動車輸送などの権限や、観光開発などの政策分野は運輸省に残し、自らは鉄道運営に専念することが求められた反面、従来鉄道省が行っていた、新路線の建設に関しては、運輸省内に移管されることとなりました。運輸省内に鉄道建設審議会が設置され、鉄道敷設法に基づく鉄道建設などの決定が行われることになります。(実際の審議会の設置は、講和条約前の昭和26年から)。
審議会では鉄道建設の決定を行いますが、実際の鉄道建設は、国鉄の業務として残り、鉄道建設審議会の勧告に従い建設されることとなりました。
この辺も、巧みに国鉄を政府の意向に残したかったから、といえそうです。
郵政事業に関しては、郵便事務は世界的に見ても国営であり、当時はGHQによる郵便物の検閲(昭和24年10月まで実施)などもありましたので、郵政事業は公社とはならず郵政省の現業として残されたものと考えられます。
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日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
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